無機質な人形たちで

東口 次登(脚色、演出

モドカシイ想い

永島梨枝子(人形美術)

舞台は薄明のよう

西島加寿子(舞台美術)

2020年 東京と福島

一ノ瀬季生(音楽)

ディックの幻視した悪夢、そして
現代の悪夢

西浦英司(ライター)

ささやかな日常を続けていく為に

日高真紅(日本SF作家クラブ会員)

出演者のことば (1)

出演者のことば (2)

もう一つのディック幻想人形劇の世界
「地図にない町」

 

「ささやかな日常を続けていく為に」

日高真紅(日本SF作家クラブ会員)

 朝起きて、食事をして仕事や学校に出掛け、帰宅して夕食を摂って就寝――そんなローテーションを繰り返し、時々は幸運な事に出くわしたり、不幸に見舞われたりしながら、それでもささやかな日常はずっと続いていく。
 そう、あなたは思っていませんか? 
 何の保証もないのに、漠然とそう信じている方は、けっこういらっしゃると思います。
 かくいう筆者もその一人なのでありますが、実際の処、日常とは、それほど堅牢なものなのでしょうか?
 そんな疑問を投げかける小説を、一九五〇年代から八〇年代にかけて多くの長編、短編を著したアメリカのSF作家、フィリップ・K・ディックは幾つも書き上げました。
 磐石に思われた日常が、突如として、あるいはじわじわと蝕まれ、崩れ去る。
 なれ親しんだ世界や自分の思い出が、実は虚構であったと思い知らされる。
 理不尽な暴力に曝され、抑圧される、悪夢の様な世界に突然放り込まれる。
 ディックの作品の主人公たちは、様々な状況で、崩壊していく現実に恐怖し、翻弄されます。
「揺るぎないと思っていた日常の脆さ」というテーマをディックはよく取り上げ、本公演の原作『薄明の朝食 Breakfast at Twilight』でも、主人公一家は、平穏な日常から突如として灰色の未来世界に投げ込まれました。
 家族が引き裂かれ、ばらばらに暮らし、子供は教育を受けられず、食糧に困窮し、いつ敵の爆撃で命を落としてもおかしくない戦時下の世界は、彼らの目に悲惨で非人道的なものに映ったことでしょう。
 ディックがこの作品を発表したのは、今から半世紀以上も前――一九五四年でした。
 それは、三年に亙って続いた朝鮮戦争がようやく板門店で休戦協定を結んだ翌年であり、世の中は「東西冷戦」の真っ只中にあったのです。
 今となっては遠い過去の様に思われますが、アメリカとソビエト連邦が、世界を何度でも滅亡させられるほど大量の核兵器を保有し、睨み合っていた時代でした。
 戦争がいつ再開されるのか、核戦争は起こるのか、と当時の人々が先行きの見えない不安に怯え、閉塞感に圧し潰されそうになっていたまさにその時。
 ディックは時代の空気を敏感に読み取り、それを作品に反映しました。
 戦争を激しく恐れ、憎んでいたディックは、警鐘を鳴らしたのです。
 それでも作品が発表された数年後には、ベルリン封鎖やキューバ危機、ベトナム戦争の勃発と、人々に日常の終わりを予感させる出来事は、次々と起こっていきました。
 日常は何もしなくても変わらずに続いていくものではなく、見て見ぬ振りをしていたら、懸念を棚上げしたら、簡単に失われる脆いものである。
 そう、ディックが訴えた頃と現在では、私たちを取り巻く世界のあり方は大きく変わりました。
 けれども、ディックの作品は決して古びたわけではありません。
 寧ろ戦争を知らない子供たちが社会の中堅を成すようになった今こそ、ディックの作品は必要とされるのではないでしょうか。