ディックの幻視した悪夢、そして現代の悪夢
西浦英司(ライター)
映画「ブレードランナー」の原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」、そして本作「薄明の朝食」の著者フィリップ・K・ディック。SFや幻想小説の読者たちには元々よく知られた作家でしたが、「ブレードランナー」が1982年に公開(奇しくも同年に彼は死去)された以降、ディックの名はサイバーパンクムーブメントの旗印の一つとなって、一般読者や映画ファンたちなどに広く認知されていきます。現在に至っては映画化作品もすでに10作を超え、日本でもほぼ全ての長編が翻訳されているあたり、かなりの人気作家といえるでしょう。2006年頃にはファンたちによってディック自身をモデルにした、遠隔制御式アンドロイドが作成されるなんていう珍事もあったほどです。一方では映画が有名になりすぎたので、作品は見たことがあるけれど作者名を知らないという方もいるかも知れません。
その作家、フィリップ・K・ディックの創造する作品世界は無数の不安に満ちています。その不安の中から代表的なものを二つピックアップしてみましょう。まずは、自分(あるいは主人公)が〝ニセモノ〟ではないのかということ。もう一つは、この私たちの過ごす世界が〝ニセモノ〟ではないのかということです。前者はディックの双子の妹が生後まもなく亡くなった事に起因する根源的な問いと言えます。後者は安全で安定した現実(という幻想)に対する懐疑です。前者の重心をおいた代表作に前述の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」、短編の代表作「にせもの」、映画「トータルリコール」原作「追憶売ります」など。後者に比重を置いた代表作は「ユービック」、「火星のタイムスリップ」、「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」、そして本作「薄明の朝食」など。 もちろんどの作品も双方の要素が交じり合って、衝撃的な作品を構成しているのですが、あえて分けてみるとすればこういったところでしょうか。
その後者の要素を踏まえた上で、彼の作風を如実に表したタイトルに〝二日たっても崩壊していない世界を創るために〟というものがあります。 小説ではなく彼の講演につけられたタイトルですが、ここから彼の観念や恐れ、妄想を彷彿しやすいとは思いませんか?
そもそもディックの作品群の中で「薄明の朝食」とはどういう位置付けなのでしょう。本作が集録された「地図にない町」は、ディック
の短編集としては日本で初めて発売された本です。出版された当時、
数少ない翻訳されたディックの短編の中でも表題作とならんで「薄明の朝食」は群を抜く評価だったようです。ディック作品は元々長編の評価が高いけれど完成度にムラがあるとも言われる事も多いのですが、一方短編の方はテーマ性、エンターテインメント性双方に優れ、破綻も少なく技巧的な小説群だとの定評があります。その評価のバックボーンの一つに「薄明の朝食」が入っている事は疑い得ないところでしょう。
本作で描かれる世界に、作品が発表された当時(1954年)のディックが感じた米ソを中心とした冷戦構造の閉塞感と核戦争の恐怖が色濃く反映されている事は、ベルリンの壁崩壊以前を知る世代の方々には容易に想像がつくことかも知れません。 しかし現在読む読者にとっても、この作品を古くさく感じさせないのはいったい何故でしょうか?本作のテーマの普遍性ももちろんですが、作品が発表された当時のアメリカでディックの感じていた、この世界に明日はもう来ないかも知れないという継続的な拭いきれない不安、それが現在の日本でも、特に震災以後、私たちが感じている世界に対しての不安や焦燥と呼応するのかもしれません。
絶望的なディックの世界に囚われたティムたちにいったい何が出来るのでしょうか。 崩壊する世界。いつまでたっても拭えない不安。入れ子のように何重にも張り巡らされた悪夢。その中で唯一残されるもの、いやその中だからこそ彼らのむき出しの〝人間の意志〟が見出されるのだと思います。
ディックの世界観はペシミスティックではありますが、決してシニカルではありません。だからこそ、極限状態に表われ出でる人々の意思が、私たちに訴えかける強い力を持ち得るのです。