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人形劇団クラルテは、乳幼児〜大人向けまで、1人で演じる人形劇〜ホールで上演する大型人形劇まで、様々なタイプの人形劇作品を製作・上演しています。会場条件や観劇人数、対象年齢等により上演できる作品が異なりますので、それぞれの作品ページで詳細をご確認くださいますようお願い致します。
パンフレットの送付依頼は下記まで。
※各作品ページからパンフレットのダウンロードも可能です。
06-6685-5601 06-6686-3461
※お電話でのご対応は、平日・土曜日10時〜17時30分(日・祝休み)とさせていただきます。
office@clarte-net.co.jp
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クラルテでは毎年、大人のための人形劇と称し、中高生〜大人を対象とした人形劇も製作・上演しています。
大阪新劇フェスティバルに合わせ毎年秋に上演を行い、その後、全国各地での上演がはじまります。
高校での団体鑑賞も可能ですので、ぜひお問い合わせください。
舞台女優を夢見てパリに出てきたムーシュ。だが現実は厳しく、全てのオーディションに落ち、食べるために場末のストリップ小屋で踊っていた。やがてそこもお払い箱になり、絶望し、セーヌ河に飛び込む決心を…と、不意に「おーい、その子、河の底は寒いぜ」振り向くと赤毛の少年の人形が語りかけてきた。そこは人形一座「キャプテン・コック一座」の芝居小屋、ムーシュは今までの苦難を忘れ、幻想的な世界に惹き込まれていく。そして人形たちと言葉を交わすムーシュの不思議な魅力が見いだされ、人形一座の座員に。
しかし、座頭で人形遣いのミシェルは悪魔のように冷徹な男だった。だが、ミシェルが操る人形たちは魅力的で、ムーシュの心を掴み離さない。
少女のように純粋な女と冷徹な男に、七つの人形たちが本当の気持ちを伝えてくれる。
スタッフ
原作/ポール・ギャリコ 訳/矢川澄子(角川文庫刊) 企画/稲岡正順 脚色・演出/東口次登 人形美術/松原康弘 舞台美術/西島加寿子 音楽/一ノ瀬季生 照明/永山康英 舞台監督/藤田光平 制作/松澤美保
出演者 西村和子 菅賢吉 奥村佳子 西島加寿子 福永朋子 藤田光平 杉山芳未 奥洞昇 齋藤裕子 曽我千尋
脚色・演出のことば
「七つの恋」 東口次登
「七つの人形の…」という題名だから人形劇にと思われがちですが、これは人間の愛の物語で人形たちは思いを伝える小道具でしかありません。だからムーシュとミシェルを人間の俳優が演じ、七つの人形をクラルテが演じる、が妥当です。しかし、それでは人形劇に未来はありません! 今回はムーシュもミシェルも人形で演じます。観客は同じ人形でありながら、ムーシュ、ミシェル、七つの人形の世界に戸惑うことでしょう。それが狙いでもあります。黒子の人形遣いは何者なのか…異化作用? 人形劇っていったい何なの? かと…しかし次第に人形であるムーシュやミシェルが「人間以上に人間だ」と発見すると思います。私は人形で演じるとは、人間の心の奥底・本質を表現し、観客が今まで味わったことのない人間の感情に触れることだと考えてきました。今回、そのことを気づかせてくれる大切な作品だと思い劇化しました。それと正反対に突然人形遣いの言うことを聞かない七つの人形たちのハチャメチャな世界や、人形遣いや人形舞台の裏側の世界もお楽しみください。劇中のキャプテン・コック一座は、リヨンの広場で野外公演します。ここはフランスの指人形・ギニョールが生まれた町です。私たちも当時の人形劇に思いをはせながら、ファンタジックな大人の人形劇になることを願っています。
人形劇『七つの人形の恋物語』公演に寄せて
「企画」者の推薦の弁 稲岡正順
「人形劇団クラルテ」は劇芸術界の中で「自己完結」的な側面を持つ集団である。全ての作業を劇団内部でこなし完成させ終了させてしまう。これは志を同じくする人々の集団として重要なことである。配役は勿論、全スタッフは(照明を除いて)すべて劇団員でまかなう。人形製作のアトリエが有るのは当たり前だが、大道具や小道具の製作も自前でやる。出演者を外部から導入することは頑固に拒絶する。劇団として当然のように思えるかも知れないが、私がかつて所属した劇団では、俳優の演技だけが自前で、舞台美術や小道具、音響、音楽、衣装などのプランナーは全て演出家の好みで外部に依頼し、それらの製作も外注である。照明、音響、運搬のスタッフ職はもとより、時には演出家さえも外部に求める。これは到底「自己完結」的な芸術集団とは云えなくて、単なるプロダクションだ。
私はかつてポール・ギャリコの小説「七つの人形の恋物語」を脚本にした。いつか自分で演出をしたいと思っていたが果たせずにいた。だが、「クラルテ」の演出家の東口さんと一緒に仕事をする機会があって親交を深め、本公演のレパートリーの候補にどうかと彼に渡したのが「七つの人形の恋物語」である。私が劇化した脚本はかなりの翻案がなされて冗長だったが、「クラルテ」の劇団総会で承認を得た脚本は「東口版」であって、原作の小説にかなり忠実な台本になっていた。無論私に異論がある訳がない。「期待しています!」と申し上げた。で、稽古初めに「企画」者として私のこの劇に対する思いと「クラルテ」に推薦した理由を、関係者一同の前で話すことになった。以下は私の話の概略である。
まず、ポール・ギャリコの作品「七つの人形の恋物語」とテーマが共通の有名な作品をいくつか挙げた。同じポール・ギャリコの作「白雁(スノーグース)」がある。
「白雁」の主人公ラヤダーは、せむしで背中は曲がりおまけに左腕は萎えしなびているが、実は素晴らしい絵の才能の持ち主の男で、傷ついて野鳥の世話をし、絵を描きながら暮らしている。壊れた灯台跡に住み込むラヤダーを、怪我をした白雁を抱いた少女フリスはやって来て治療を頼む。少女は治療の間にラヤダーの動物への愛や、卓越した絵の才能に接し心を奪われていく。渡り鳥の白雁は傷がいえると灯台から去り、毎年秋にはラヤダーの灯台跡に帰ってくるようになり、その間だけフリスもラヤダーのもとを訪れ楽しい時を共有する。しかしラヤダーはある日突然、命を懸けた尊い行いのために灯台を去ってしまう。ドイツ軍に包囲されて集中砲撃を受けているダンケルク島のイギリス兵を島から脱出させるため、自らの小型ヨットで命がけの舟出をする。以後二人は二度と会うことはなかった。
この物語は、少女と絵描きとの愛の物語でもあるが、それ以上に、社会から忌み嫌われた男が誰にも知られずに行った尊い生き方がテーマとなっている。
次に、ガストン・ルルー原作の有名な「オペラ座の怪人」の主人公も醜い顔を仮面で覆っている怪人である。その怪人が美しい歌手クリスティーヌに恋をする物語である。クリスティーヌはオベラ座に棲みつく仮面の怪人の素顔に接してその醜さに驚愕し嫌悪感を抱くが、怪人の音楽に対する至高の才能と、醜さゆえの孤独が同居する姿を見て憐憫の情を起こす。クリスティーヌは彼女を慕う男を捨て、怪人の才能への尊敬と愛を示すため怪人に歩み寄って、誰もが忌み嫌ったその醜い顔を正視しながら接吻する。この作品もまた、醜い男の才能に美しい乙女の愛を示す物語である。
さて、「七つの人形の恋物語」の作者ポール・ギャリコは一時スポーツ記者として名声を博した。彼はスポーツが持つ逞しさと残酷さ醜さの一面を知っていたし、運動家の心の美しさを知っている。「七つの人形の恋物語」は軟弱な美男子がはびこる現代女性への警鐘の劇とも云える。
「七つの人形の恋物語」にも残酷で醜い人形遣いミシェルと、彼に遣われる七体の人形が出てくる。七体の人形は皆、個性的で素晴らしいキャラクターで描かれている。この劇には人形たちのほかに人間も登場する。七体の人形を操る人形遣いミシェルとこの一座に紛れ込んで出演する少女ムーシュ、舞台監督の黒人のゴーロである。私はこの三人は人形でなく生身の役者が演じるのだろうと考えていた。
その理由は最終景で、ムーシュが若いアクロバット男に恋をし、彼と一緒に一座を去ろうとするが、軽薄なアクロバットの若者に比べてミシェルの真実の男の愛の深さにムーシュは気づく。この場面こそこの劇世界の総てを集約する。だからこの劇世界を煩雑に描いてはならないと思っていた。
哲学者の人形ムッシュ・ニコラが男の真実の愛を綿々と語る。ムッシュ・ニコラが述べる男性論は、遣い手のミシェルの真情の告白である。それを全的に理解したムーシュが人形舞台のケコミ幕を引き倒すと、そこにはニコラ人形に手を突っ込んだミシェルの姿がシルエットとなって佇立している。最早、七つの人形は「木偶の棒」となりミシェルの足元に散らばっている。そして二人は抱擁し、たましいは固く結ばれる。この場面にはミシェルとムーシュの二人だけが舞台にいることが演劇的である。傍らでこの情景を眺める醜い黒人ゴーロは快哉を叫ぶが、ゴーロはミシェルの「醜さと真実なたましい」を共有している存在であり精神の同一性を宿しているのであって、舞台には二人だけが居るのと同じだ。
以上が私の、醜さの内部に宿るたましいの美しさをテーマにした「七つの人形の恋物語」を「人形劇団クラルテ」に薦めた意図である。「人形劇団クラルテ」は純粋で美しい「自己完結」的集団であるからだ。
ところが、「自己完結」的「人形劇団クラルテ」は稽古初日に私が語った私のこの思いを容認してくれなかったようだ。演出家の東口さんは「人形遣い」について牢固な信念を持っている。観客の前でうちの役者(彼らは出演者をこう呼ぶ)同士が舞台で抱き合うなんて許せない、彼らは人形遣いなんだから、だからと云って外部の、例えば新劇団の役者に出演を依頼することも人形劇団の沽券にかかわる、第一彼らに人形は遣えない。と云う。ところが…、「ねえ、出来ないよね?」という演出家の問いかけにミシェルの役者は黙っていたが、ムーシュ役の女優さんは「私、出来ます!」と事もなげに答えた。私は東口さんの顔を見ることは出来なかったが、蒼ざめているのを感じた。果たして公演ではどの様になっているのだろうか、楽しみである。
稲岡正順プロフィール
1940年生まれ。1960年「劇団仲間」入団。1966年日本大学芸術学部卒業。1974年文化庁在外研修員としてヨーロッパ・アメリカに留学。イギリス「ロイヤル シェイクスピア カンパニー」等で演出を研修。1982年日本演劇家代表団として中国各地を訪問。「劇団仲間」にて、ヴェデキント作「春のめざめ」、イプセン作「人形の家」、デヴィッド・ウッド作「それゆけクッキーマン」など多数演出。
1991年「劇団仲間」退団。1993年劇団「槿花舎」設立。
家畜として生まれた動物たちは、自らは何もせず、搾取し消費するだけの人間に憤っていた。
「人間は、ミルクも出せなければ卵も産めない。力がなくて、鋤も引けない。それなのに我々動物の上に君臨している。ミルクを出し、卵を産み、鋤を引く我々は、授かった命を全うすることさえ許されていない」
長老豚メージャーによってその事実に気づかされた動物たちがついに立ち上がった。人間を追い出し、荘園農場の名を「動物農場」と改めた。自由に生きるための法律「動物農場七戒」を定め、指導者のいない動物農場でみんなが責任を持って懸命に働き、収穫は大成功を収めた。皆は腹一杯食べ、とても幸せだった。
やがて、メージャーから人間の知識と学問を授けられ、農場の頭脳として働いていた3匹の賢い豚、スノーボール・ナポレオン・スクィラーの意見が割れ始めた。農場の未来を案じて風車の計画に取り掛かるスノーボールに対し、目先の収穫に拘るナポレオンとスクィラー。動物たちはその間で揺れ動きながらも、徐々にスクィラーの巧みな演説に誘導され、ついにスノーボールを人間のスパイと断定し農場から追い出してしまう。
そして、農場の指導者となったナポレオンの指揮の下、動物たちは風車の建設に取り掛かり始めた。人一倍働くボクサーや小言を言いながらも働くベンジャミンに対し、リボンや甘い砂糖を好むモリーは、動物たちの輪から離れて行く。
そんな中、かつての農場主ジョーンズが風車の計画を知ることとなる。
風車が完成しようとする頃、動物農場に人間たちが現れた。人間は風車に爆薬を詰め込み、跡形もなく壊してしまった。怒り狂い、人間に立ち向かっていく動物たちだったが、多くの犠牲を生んでしまう。
やるせなく悲嘆する動物たちを前に、ナポレオンとスクィラーは「風車の戦いだ」と鼓舞し、その裏で敵であるはずの人間たちと取引を始めた。
厳しい冬が訪れ、農場での収穫は減る一方。動物たちへの配給は日に日に減っていった。農場一の働き者ボクサーが倒れ、ナポレオンは、医者と偽り屠殺業者を呼んだ。そうとは知らずボクサーに見舞いの言葉をかける動物たちに、ベンジャミンが初めて声を上げた。
「お前さんたちがハエだ! わしら年寄りや弱いものにたかるハエだ!」
もはや豚は人間だった。人間と同じ格好をし、二本足で歩いた。仲間であるはずの動物たちの上に君臨していた。
しかし動物たちは、ナポレオンの駆り立てた猟犬にも、振り上げられた鞭にも怯まず立ち向かった。
俺たちには夢がある
弱いものも 強いものも
賢いものも 愚かなものも
みんなが自由に 大地を駈ける夢さ
ミューリエルが唄い出した「大地を駈ける」に、他の動物たちも続く。そしてついに、何度も書き換えられた動物農場七戒の看板を倒した。
すべて終わった静寂の中、動物農場に舞い込んだ一陣の風によって風車が回り始めた。
スタッフ
原作/ジョージ・オーウェル 翻訳・脚本・演出/東口次登 人形美術/永島梨枝子 舞台美術/西島加寿子 音楽/一ノ瀬季生 照明/永山康英 舞台監督/藤田光平 舞台監督助手/宮本敦 制作/中山美津子
出演者 西村和子 菅賢吉 三木孝信 高平和子 奥村佳子 永島梨枝子 藤田光平 杉山芳未 奥洞昇 宮本敦 齋藤裕子 曽我千尋
脚色・演出のことば
「動物農場」から「新・動物農場」へ 東口次登
今回の作品は1999年に上演したものに、新たに手を加えたものです。
初演の時は、2000年問題で世紀末を叫ぶ人もいて不安な年でした。そして東海村の核燃料工場で日本初の臨界事故が起きました。作業工程に「裏マニュアル」があり、結果被爆者を出して周辺住民が避難し、約30万人が屋内退避をしました。あれから12年、東日本大震災が発生し、福島原発事故の処理は一年半すぎた現在も問題は山積みです(東海村の事故は活かされたのでしょうか?)。この事故での国の対応の危うさや、国民が国に本当に守られているのだろうかといった当然の疑念が原発反対デモなどにも現れている気がします。そして貧困率が上昇し、消費税も上がり、仕事が見つからない人や老人や子どもたちは、誰が守ってくれるのでしょうか?
そこでもう一度「動物農場」の上演を決意しました。原作は旧ソビエト連邦の神秘を暴くために書かれていると言われますが、現在の日本にもよく当てはまる内容です。いつの世でも権力は腐敗し、国民には平等と唄いながら一部の力あるものが支配する、そして法律が都合のよいように変えられ、基本的人権が失われていく。3.11後、今が特にその時代のように思えてなりません。個々人がこれからどう生きて行くべきか、それぞれが判断し決断しなければならない世の中になったような気がしてなりません。
こう書くと未来や希望のない本に思われますが、オーウェルはもっと民衆がそのことに早く気づき、より豊かな社会をつくってくれることを望んでいたと思います。あえて動物による寓話にしたのは、動物独自の持っている個性とそこから想像させられる愉快な人間像で持って、このディストピアな世界をユーモラスに表現したかったのだろうと思います。
今回は、動物たっちが『♪自由に大地を駈ける(革命家)』世界を描くために、希望のもてる作品に書き換え『新・動物農場』としました。オーウェルはきっと許してくれると思っています。
ものがたり
今より一千年も昔、平安の時代。天文地理の妙術を悟り神通力と謳われた陰陽師・阿倍晴明の誕生にまつわる物語。
代々天文道を志す家に育った阿倍保名は、信太明神へ参詣の折、天文道のライバル足焼けの石川悪右衛門狐狩りに出くわした。狩りに追われた白い狐を、保名は不憫に思い逃してやった。そのため悪右衛門と言い争いとなり、傷を負い信太の森をさまよっていた保名の前に、葛の葉と名乗る女性が現れる。
二人はやがて結ばれ、子をもうけた。童子丸と名付けられたその子は、虫や蛙などと心を通わせる不思議な子に育つ。
童子丸五歳のある秋の日、葛の葉は庭の蘭菊に見とれているうち、人の姿を忘れ正体を現してしまう。それはかつて保名が助けた白狐だった。その姿を子に見られた葛の葉は、障子に別れの句をしたためる。
「恋しくば たずねきてみよ いずみなる しのだのもりの うらみ葛の葉」
姿を消した葛の葉を追い、保名と童子丸は信太の森を訪ねた。しかしいくら呼べども葛の葉の気配はない。諦めた保名が子と共に自害を決意すると、耐えかねた葛の葉が姿を現わす。保名は童子丸のためにも共に暮らそうと説くが、最早人の世に戻れぬ運命の葛の葉は童子丸の将来のことをくれぐれも頼み、愛着の絆を切るべくまた元の白狐の姿となって、森の奥へ消えていった。
五年の歳月が流れた。十歳となった童子丸は名を阿倍晴明と改め、天文道の修行に天賦の才を発揮していた。さらに文殊菩薩の化身とも言われる伯道上人のお告げを得て、陰陽の秘伝を授かる。
その頃、京都の都では帝の病の原因が分からず大騒ぎとなっていた。名高い陰陽師・芦屋道満の祈祷も効き目がなかった。
晴明は小鳥たちの世間話に耳を澄ませ、帝の病の原因を知る。直ちに保名と共に京に上った晴明は、御殿の柱の下に埋まっていた蛇と蛙を逃し、見事帝の病を治してみせた。この功により、保名と晴明は陰陽頭に召されることとなった。
逆に面目を失った道満は晴明に占形の術比べを挑むが、そこでも晴明の技が勝る。怒り治まらぬ道満は晴明の動揺を誘うべく、父子を分ける謀事をめぐらす。偽の勅旨により晴明が祈祷をしている間、道満の手のものが保名を一条橋で待ち伏せて、闇討ちに葬った。
父の死を嘆く晴明だが、伯道上人のお告げを思い起こし、一生に一度の大術・生活続命の法をもって八百万の上に祈り、ついに保名を蘇生させる。
謀事が成ったと思い得意絶頂の道満は、何事もなく現れた保名を見て肝を潰した。帝の御前にて謀事が明るみに出て、観念し頭を垂れる道満。その首を取る許しを帝より得て、晴明は太刀を振り上げる。
その時、高らかな鳴き声が響き、母なる白狐の姿が現れ、晴明に語りかける…。
※阿倍晴明の苗字は「安倍」と記すのが一般的ですが、この芝居では阿倍家の在所・阿倍野の地に親しみを込めて、「阿倍」と記しております。
スタッフ
脚色・演出/東口次登 人形美術/永島梨枝子 舞台美術/西島加寿子 音楽/一ノ瀬季生 照明/永山康英 舞台監督/隅田芳郎 制作/齋藤麻美
出演者 芳川雅勇 西村和子 三木孝信 永島梨枝子 西島加寿子 福永朋子 松原康弘 鶴巻靖子 隅田芳郎 宮本敦 荒木千尋 横内麻里絵
脚色・演出のことば
素朴な人形劇 東口次登
1995年に「しんとく丸」(吉田清治・作)を上演して以来の説経浄瑠璃である。その間にハムレット、マクベス、三文オペラ、セチュアンの善人、火の鳥と劇的でかつ難解なドラマを人形劇化してきた。そこには人間芝居なるものを人形劇化して、より人形劇の方が魅力的であるということを証明してやろうという魂胆もあった。そして人形劇ならではの演劇性をいくつか発見出来、収穫もあった。しかし今、単純で素朴な人形劇がしたくなった。難解なドラマ仕立ては、観客を思考させようとする回路が働きすぎ、人形の本来持つ表現より、筋立てを感動的に魅せるために人形を駆使することになっているのではないか。それは人間の俳優が人形に変わっただけにすぎないのではないか。
「人形は何のために存在するのか?」
久しぶりに原点に帰ってみたくなった。
『しのだづま』は『芦屋道満大内鑑』(竹田出雲・作)として、文楽・歌舞伎の名目の一つとして上演されている。人形に関しては、近松時代の一人遣いから、現在の文楽の三人遣いになった初めとも言われています。三人遣いはより人間らしいリアルな動きを求められ、先ほど述べた人間が人形に変わったと同じ意味を持つかも知れません。出雲作はお家騒動あり、二人の葛の葉が登場して早変わりもあり楽しめますが、全体的には結構難解なドラマです。しかし今回は、葛の葉は一人で、子別れを主にした単純なドラマです。当時は、よく知られた物語を説経で聞いて、わかっていながら涙するそんな時代だったのかも知れません。そうなると、筋書き・戯曲だけに頼れない人形たちが慌て出します。人形たちは、神仏の再来・降臨のような、あるいは自然が生み出した象徴のような存在として演じられなければならないと思っています。保名・葛の葉・晴明の親子こそ、自然が生みだした人間の本来あるべき姿なのかもしれません。
この作品は東日本大震災の前に書かれた脚本です。震災後、演劇に何が出来るかとよく問われますが、この作品はそのために新たに手を加えなくても充分理解していただけるものと信じています。
主人公李緒は、ちょっと空想好きなどこにでもいる中学3年生。
最近は成績も振るわず、家では親に勉強のことをしかられ、友人のノリについていくこともできず思い悩んでいたところに、クラスで突如陰湿ないじめが始まります。たまらず家に帰り、泣きながらぬいぐるみを壁に投げつける李緒。家でも学校でも追いつめられた李緒はとうとう声がでなくなってしまいます。
さて・・・
鹿児島の現役の中高生たちが企画を立て、原案を考え、人形劇団クラルテとともに作品づくりに深く関わった初めての作品。両親に、学校に、友人に問題を抱える中高生に、ぜひ見てほしい作品です。
スタッフ
企画/鹿児島県高学年祭典プロジェクトチーム 原案/児玉茉莉亜(北部みどり子ども劇場) 脚色/宮本敦 詩(引用)/室生犀星「切なき思ひぞ知る」 演出/東口次登 美術/永島梨枝子 音楽/一ノ瀬季生 照明/永山康英 舞台監督/宮本敦 制作/古賀恵子
出演者 高平和子 永島梨枝子 宮本敦
脚色のことば 宮本敦
思春期と呼ばれる時期に大人たちから見れば気づかないような部分で、本人の中では、自分の存在価値を問われたり、何のためにどう生きていくかにつながるような価値観の揺り動かしにぶつかることがあります。しかしそれは殆ど感覚的な話であり、共通の言葉や理屈としては他人と共有できない場合が多いと思います。
今回の脚本には、いじめ、失語症というモチーフはありますが、あまり特別な環境に陥ってしまった子の話という捉え方をせず、その時期にいろんな子に起こりうる内面的な壁や、他者との関わり方の軋みや、価値観の変化を描きたいと考えて描きました。
物語前半では、そうした家庭での疑問や不条理や、自分の思う正義感が通用しない無力感や、自分の気持ちを自分でも整理・説明できないもどかしさ等に寄り添い、思春期の観客と広く問題を共有したいと思います。
後半では、原案者の意図に留まらず、劇団や大人たちからの「こうあってほしい」「こうありたい」という想いも含みながら、主人公が自分自身と周囲に対して改めて向き合えるまでを描きました。きっかけのひとつとなるのが、作品タイトルにもなっている、室生犀星の「切なき思ひぞ知る」という詩です。詩の印象・解釈は受け手によって違うと思いますが、時代を超えて、上手に生きにくい現代の子どもたちに、寄り添うことができる詩だと感じて引用しました。
思春期の困難に対して前向きに挑んでいくために、この作品の主人公李緒が、心強い仲間となればと願います。
演出のことば 東口次登
今回の企画をみて、子どもたちが本当に普通に生きることが難しい世の中だと感じた。学校でのストレスを家で癒してもらうはずが、家で倍返しに遭う!(もちろんその反対も) いつか行き場がなくなり、ひとり自分の世界にいることがギリギリ安心の場となり、そして「生きてる意味ってなんだろう?」と疑問を持ち続ける・・・人間で演じると目を背けたくなる生々しい現実の再生ドラマになりそうですが、人形劇だとファンタジーになります。李緒の心の声は、実は観る人それぞれの自分の心の声だと気づくはずです。そして李緒が求めているものは自分が求めているものだと・・・それは信じてくれる人がいることかな、と思いながら作品をつくりました。
ジョバンニは生活のため、毎日学校が終わると、活版所で活字を拾う仕事をしていた。出稼ぎに行っている父親のことで学校の友達からはからかわれていたが、親友のカンパネルラだけは違っていた。
ケンタウルス祭の夜、ジョバンニは病気の母親のために牛乳をもらいにでかけると、またいつものように他の子どもたちにからかわれる。その中にカンパネルラを見つけると、ジョバンニは彼の眼を避けるようにその場を去り、露の降りかかる林の小道をどんどん登っていった。
がらんと空がひらけた真っ暗な丘に体を投げ出して星空を見上げると、にわかに大きな汽車の音。そしてまぶしい光とともに不思議な声が響く。「銀河ステーション、銀河ステーション」
スタッフ
原作/宮沢賢治 企画/高平和子 脚色・演出/東口次登 美術/永島梨枝子 音楽/一ノ瀬季生 照明/永山康英 舞台監督/松原康弘 制作/古賀恵子
出演者 高平和子 奥村佳子 永島梨枝子 松原康弘 梶川唱太 宮本敦
脚色のことば 宮本敦
思春期と呼ばれる時期に大人たちから見れば気づかないような部分で、本人の中では、自分の存在価値を問われたり、何のためにどう生きていくかにつながるような価値観の揺り動かしにぶつかることがあります。しかしそれは殆ど感覚的な話であり、共通の言葉や理屈としては他人と共有できない場合が多いと思います。
今回の脚本には、いじめ、失語症というモチーフはありますが、あまり特別な環境に陥ってしまった子の話という捉え方をせず、その時期にいろんな子に起こりうる内面的な壁や、他者との関わり方の軋みや、価値観の変化を描きたいと考えて描きました。
物語前半では、そうした家庭での疑問や不条理や、自分の思う正義感が通用しない無力感や、自分の気持ちを自分でも整理・説明できないもどかしさ等に寄り添い、思春期の観客と広く問題を共有したいと思います。
後半では、原案者の意図に留まらず、劇団や大人たちからの「こうあってほしい」「こうありたい」という想いも含みながら、主人公が自分自身と周囲に対して改めて向き合えるまでを描きました。きっかけのひとつとなるのが、作品タイトルにもなっている、室生犀星の「切なき思ひぞ知る」という詩です。詩の印象・解釈は受け手によって違うと思いますが、時代を超えて、上手に生きにくい現代の子どもたちに、寄り添うことができる詩だと感じて引用しました。
思春期の困難に対して前向きに挑んでいくために、この作品の主人公李緒が、心強い仲間となればと願います。
脚色・演出のことば
人形こそが「生と死」を演じる 東口次登
「銀河鉄道の夜」の車窓から見える風景は、今までに書かれた賢治童話のそれぞれの1シーンがメビウスの輪のように繋がった映画のフィルムのようにも見える。それはきっと、賢治の作品は「生と死」がテーマであり、銀河鉄道はその「生と死」の境界を走り続ける永遠の汽車の旅だから、全作品とシンクロしているのだろう。そのうえ賢治の言葉は理屈っぽくなく、心象風景が映像となって浮かんでくるような想像の世界になっている。この想像世界をドラマとして表現できるのが人形芝居の最も得意とするところだと思う(ここで言う想像とは映像的意味合いではなく、心象風景として)。
人形はそのままではただの死体に過ぎない。人形遣いが魂を込めることによって生命を持つ。つまり人形芝居は死から始まるドラマなのです。「生と死」を描くために生まれたといってもいいでしょう。今回は特に皮膚感覚のない和紙で人形を作りました。それは肉体から遊離した世界、ココロと感覚の世界を描こうと考えたからです。きっと賢治の心象風景を表現してくれるでしょう。
主人公ジョバンニの友だちカンパネルラはザネリを助けようとして、川に落ちて死にます。ジョバンニがカンパネルラの死を知るのは最後です。観客は前半で知ります。つまり観客は「生と死」の境界をずーっと観る仕掛けになっています。私たちは老人や年配者が自分より先に死ぬであろうことは予測できます。しかし、年少の友だちが死ぬとはどういうことだろう? 予測し得ない「死」ほど劇的なものはありません! 本当に生とは何か、死とは何か感じざるを得ません。言葉では予測できない感覚の世界、それが「銀河鉄道の夜」です。
死から始まる人形たちは、いつも生きることに飢えています。ジョバンニやカンパネルラが問う「ほんとうのしあわせ」は、人形たちの願いとほんとうに一緒です。