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 鹿児島の離島に作品をとどけて

     私は子ども劇場をやっています。いろんな立場の人がいうと、ああこんなに作品が膨らんでいくのかなーって、すごく思いました。
 鹿児島県で子ども芸術祭典をやってて、毎年、毎年クラルテの関わりを作っているのでそのせいでここにいるんだと思うんですが。
 鹿児島とクラルテとの出会いがちょうど二〇年ぐらい前だったんですね。最初「お夏清十郎」を子ども劇場が、五年目ぐらいたった時に高学年の作品としてやらないかと、日隈さんが訪ねてこられて、それから始まったんだなって、さっき日隈さんと確認しました。
 それからクラルテが鹿児島で、毎年秋になると幼稚園公演が始まり、私たち劇場とのつながりがつくられていきました。国際児童年の一九七九年に、私達子ども劇場の中で、生の舞台に一度もふれたことのない子どもたちに作品を届けようっていう企画があり、その時にクラルテが種ヶ島に私達と一緒に渡りました。
 島だったら一度も見たことがないだろうと、単純な思いでやったことがきっかけで、そのときの衝撃っていうのがすごくあって、子どもたちがもう吸い取り紙みたいに見てる姿っていうのかな、そういうのを見て、子どもにとって生の舞合ってのは権利なんだよねって、その時思ったんですね。
 私たち劇場って何やってるんだろうって、そのときそういう思いがすごくありました。私も生の舞台芸術が何かっていうことは、事務局やって二三年になりますけど、子どもたちにとって必要だということはわかるけど、はっきり理論としていえないんです。たぶんみんないいって思ってるから劇場も広がり、運動も広がっていると思うんです。そして劇団も広がっていると思うんですけど、芸術祭典のことや島のことを一緒に体験したっていうことで、夢が広がって一九七九年に国際児童年があって、それから十年後に「鹿児島県子ども芸術祭典」っていうのが生まれました。
 その時に県内すべての子どもたちに、一度は生の舞台にふれて見せてあげたいなーっていう思いみたいなものが祭典の原点です。鹿児島は離島で有人島が二八ありますから、見てない子どもたちがいっぱいいるんです。そして、そこまで行くっていうと経費的にはとっても大変なんですね。それで今、県内でそういうことをやっていこうって、劇場の運動の柱になっているんですけど、それがもう十年続いています。

 クラルテは鹿児島の地元劇団です

 私、昨日来る前にクラルテの芝居を見た子どもたちが、祭典で何人いるんだろうっていうのを、ちょっとだしてみたんですね。そうすると、今年のクラルテは県内75ステージですから子ども劇場だけでも十年間に五万人は確実に越えているんですよね。幼稚園公演が毎年二〇年も続いていますから、最低十ステージはしていると思うと・・・単純にいろいろたしても十万人近く、鹿児島県で子どもたちがクラルテの人形劇にふれている。
 祭典でいろんな舞台劇もやりますし、音楽もやったりするんですけど、子どもが本当に初めて出会うのはクラルテの人形劇がいいって、私はなんとなく鹿児島の中では思ってるんです。初めて出会うには人形劇がいいんじゃないのかなーって、こう思ってるんです。
 子どもたちが生まれてきて、そういう楽しさだったり、いろんな面白い世界に入っていくのはそういうのがいいだろうなっていうので、はじめての地域にはすすめています。
 だから鹿児島では、ひょっとしたら大阪よりクラルテってことではみんな知ってる、子どもたちも親たちも知ってる、地域の中で行政の人たちも知ってるっていう状況は、かなりつくられてきているんじゃないかなーと思います。それだけ、すごくクラルテの役割が大きくなっているっていうのがひとつあります。
 祭典でなんでクラルテをするのかっていうのは、プロの人形劇団が九州にも一人でしているとかはありますけれど、集団として、団体としてはないんですよね。その時に一番身近で、クラルテの日隈さんを通しての縁もあって、毎年幼稚園公演をやっているっていうのもあって、フエリーで大阪からきたら志布志に着くっていう、それだけのことなんですけど、なんかそういう片思いみたいなところがあって(クラルテはたぶんそう思ってはいない、松本さんは思ってないかもしれないと思うんですけど・・・)鹿児島で私たちは地域の創造団体としてクラルテを位置付けています。
 鹿児島の祭典は風の子九州や道化と一緒に地域の創造団体として共につくります。だから一緒に考えて一緒に運動やっていける仲間という、見合える関係があります。

 地域を共に考えてくれる劇団かな、クラルテは

 もう一つは何でクラルテとやるかっていうのは、さっき言ったみたいに、子どもにとって、初めての出会いっていうのは、やっばり人形劇がいいのじゃないのかなーっていうこと、もう一つは、クラルテの役者っていうのは、全員が全員そうじゃないかもしれないけど、一緒に共有しあえるんですね。地域のこととか、運動を語れることで。
 言葉でいうと運動を語る、一緒に作るになると思うんですけど、私は子ども劇場をやっている関係で、芝居って観客が作るって思っているんです、八○%は・・・。劇団の人はそうは言わないと思いますし、それでいいと思うんですけど、私の場合はそう・・・取り組み、地域の中でのの取り組みだったり、人間関係だったり、子どものつながりだったり、もう観客がほとんど八○%、九〇%作ると思ってますから、そういうふうなことを一緒に、あそこはこうだったよね、あーだったよねって、もっとこうあったらいいよねとか、作品がちょっとこうなってほしいとか、そういうことも含めて、一緒に語って、地域のことも語って、だから鹿児島の場合、公演よりも、その後の交流会の方もむしろ運動として大事というか、役者とか制作者とどんな話をするかって、それを次につなげて行くことが、かなり重要になります。だから、一回の出会いじゃないんですね。
 十年二十年の出会い、それからこれから先の出会いもどう作るかっていうのが、鹿児島にとってはとっても大事なことなんです。なんか文化っていうのはたぶんそんなことなんじゃないかなって思っています。一回出会ったら、それでいいっていうもんじゃないと思うんですよね。そういう意味では、すごくクラルテっていうのは一緒に私たちの地域を考えていける、これからどうしたらいいかってことも頭を悩まして、共に考え、一緒にやっていけるっていう実感がもてる劇団っていうのかな。役者も含めてそういいう風に思っています。
 私たちのわがままないろんなことをも聞いてもらっているし、一緒に飲んだりさわいだりしながら。新しいことの創造をもしていくって、そのことがすごく大事かなーって思っています。

 クラルテにこれから求めたいこと

 せっかくここへ来たので、いろんなことを言いたいと思ってまして・・・、クラルテにこれから求めたいこともあります。「地域と生きる」っていうことをクラルテがこれからどう位置付けるかっていうこと、日本全国になるのかなとか、ある一定の地域に狭めるのかとか、鹿児島のことも含めてなんだけど、じゃあどこの地域と生きるのかとか、だれと生きるのかとか。
 劇団の役者も多分そうだと思うんですけど、団体としてじゃなくて、個人の思いだったり、とっても個人が大事になってきて、それでチーム作ってやっていく時代になっていくと思うんですね。そういう時に本当にクラルテがどこに向かってどう歩くのかなっていうのが今ちょっと、まだはっきり見えない?
 鹿児島とのかかわりも、(あのごめんね、いろいろ言わせてもらうと)や。やっぱりその辺もはっきりしてほしいなって思うし。
 それから、もっとクラルテの大きな役割がある。というのは、近松のこととか、高学年の子どもたちに向けてもなんだけど、そういう古典を現代に生かすって、もう一つの大きな仕事もありますよね。そのことも含めてこれから古い人形劇だとか伝統を、私たちと共に地域の中で生かしていくのかっていうことも、もっともっと、役割っていうか、仕事が大きくなるって思うんですよね。
 クラルテの役者って、一人一人の力量をものすごくたくさんもっている。中堅もいっぱいいるんですけど、もうちよっと、一人一人が頑張ってほしいなっていう、集団に甘えていないかなっていう、私はその辺をすごく感じます。
 ものすごい力量もあって、すごいものをもっているんですけど、なんとなく、そこに満足してるような所もあろんじゃないかなって、もっと一人一人が世界と地域と日本をつなげてく、そういう役割をもてるような、役者だったり人材だったりするんじゃないかなっていうので、私はすごく大いに期待しております。はい十分たったので終わります。

 「子どもと笑い」と「悪について」がキーワードかな

松本    ありがとうございます。クラルテの作品を見て、クラルテについて喋るんやから、クラルテのことばかりになってくるのは仕方ないんですが、それを司会するというのは大変、苦しいものがありますね。ほめられると期待に応えようと思うし。くさされると落ち込む反面、そんなことないよと反論したくなる。こだわっていると私が全部に向かって反論せなあかんことになってくる(笑い)。
 お話をきかせてもらって、「子どもと笑い」ていうか、劇を見せて行くのに、幼児っていうのは絶対否定はしないんですよね。特に二歳三歳四歳の子っていうのは。だから退屈していても、見た後で「おもしろかった?」って聞くと「うん」ていうんですよ。反対に「おもしろなかったやろ」って聞くんですよ。そしたらやっぱり「うん」ていうんですよ。
 ですから、あの子らに判断を求めてもなかなか無理なので、おとなである我々が判断していくしかないんです。そうすると、笑っていることが一番の近道で、手がかりなんですよ。お芝居っていうのは生ですから、離れたくないんです、子どもとね。それで、距離をはかるためにどうしても笑いを考えてしまうんです。そこで笑わせようと悪あがきをするというか、深みにはまって、それでも笑わなかったらどんどんどつぼにはまって、終いになったら人形をたたくだけでも笑ってくれるから、もうここでたたいちゃえみたいな、あるいはここでこけちゃえみたいなところへ気持がいくんです。
 それは随分いましめているんですけど、それでもやっぱりあるんじゃないかなという中本さんの言葉もありまして、「子どもと笑い」をキーワードにできないかなということが一つと、もう一つは土居さんが言っていた「社会の悪い部分を作品の中に反映していく?」ということはどうなんだろうかという、一番耳がいたかったのは、良い人間しかでてこないとかね。悪者がとか、悪い人がなかなかリアルに描けないっていう部分ですけど、そのことが優しさとかを追及してしまって、というか、だから生きていく厳しさ、つまり別れとか悲しみとか、とっても大事なものを失った時のつらさとか、そういうことを表現するということが辛いんですよ。どうしたらいいんだろうというのがありまして、笑わせることはテクニック的にどうにかなるかなって、だけど生きて行くつらさとかしんどさを表現するっていうのは何なんだろうっていうふうな。
 ある外国の劇団の人は三歳で人生のすべての感情はわかると、だから死をも表現できるって、こういうふうにいいきるんやけど、私はそれをまだ自分ではようつくらんなって。その辺ですかね、先ほど土居さんが言われたんは。それも一つのキーワードになるかなと、今のこのテーマの中で、何かご意見を言っていただけるとありがたいのですが。

 笑うっていうことが大事

加用    あのー、笑いっていうとね、中学生とか高校生とか大学生なんか見てるとね、やっばり今のテレビのバラエティー、しょうもない番組が非常に好きで、だから我々中年のおじさん、おばさんにとったらそんなしょうもないもんで笑うなって言いたくなるところがあるでしょ。でもぼくは乳児とか幼児は笑う人たちだと思うんですね。彼らでも一日中笑ってなくちゃ、正常な神経が維持できないような存在なんだと思うんです。
 最近、保育所で見ていると、もうちょっとこの子笑わんかいっていう子がけっこういたりして、だから乳児や幼児にとってはしょうもない笑いから、腹をかかえての笑いから、いろんな種類のがあって当然なんですが、笑うっていうことは、それ自体がものすごく大事なことなんだという気持ちがぼくはあるんです。
 こどもも人形劇を見ていて笑い方にいろいろあるから、例えば演出なんかダブルテーキングというのかね、その人がこれを探してたんだとか、これを見ることがとても意外なことなんだっていうことが、ストーリー展開ではっきりわかってて、これを使われると効果がぱっと出るんだけれど、そんなことがよく訳もわからずに、「ああここっ」てやられると、この顔だけにゲラゲラ笑うと、やっぱり同じダブルテーキングでも効果がちがうし、人形劇を見てるときに前の方から見てればよかったんだけど、こどもが笑ってる時の顔はなかなか見えなかったから、きっと笑い方がそれぞれ別れていたはずだと思うんですけど・・・。もうちょっとその辺の子どもの笑い方みたいなものを、ビデオなんかで撮ってみて調べたりしたら、劇団としたら、そういう研究したらどうかなーと思って、前やろうかっていったときありますよね。
 追加してなんですけど、子どもは特に乳幼児の場合には一つの物語をまとまりとして見るということが、まず練習というか、難しい時もあって、細切れに即物的にそこが面白かったら面白いっていうのがすごく大事なんですよ。だから笑いは大事やし、場面場面でカーッて笑うっていうのもすごく大事だと思うんですけど、ただそれだけで終わってしまうんじゃなくて、そうした連続の中にちーやんとおとなが物語っていうのはこういうもんなんだよとか、それをたどっていけば、終わって家へ帰った時に、笑ってたけれど、ふつと考えたら、これはこういうのなんだって、物語がわかるようにちゃんと作られてさえいたらいいんじゃないかなと思うんですね。だからそこのところが笑いっていう時になんかあるんかなって、もちろん笑いにはいろんな質がありますけど。

 笑えない親子がいる

藤    あの祭典の中であるんですけど、みんなで笑えるって幼児にとってすごく高度なことなんだなって思うんですよ。
 子どもたちの笑いを見ていると、まず一人ではあんまり笑えないんですね。周りを見てみんなが笑っていると一緒に確認して笑っている子どもたち、そして親が笑っていると笑っていいんだとか、そういう感覚みたいのがあって、人間性を共有しあえる楽しさだったりという感覚を、たぶん共有しあえるんじゃないかなって。
 私、最近ちょっと笑いということで気になることがあります。笑わない親子が、能面みたいな顔をした大人が増えているんですね。必ずどこの会場にも一人や二人、多いとこでは十人ぐらい、全然人形劇を見ても笑わない、表情ひとつ変えない。男性で昔多かったんですよね。笑ってやるもんかこういうものにって。そういう笑えないっていうのとはまたちがって、若いお母さんたちで本当に表情を変えないで、だからといって楽しくなかったのかっていうと、劇団の人たちに「面白かったです」っていってるから、本当にこの人面白いって思ってるのかなって、笑わないお母さんの子どもたちはやっぱり笑っていないんです。同じような表情をした親子がそこにいるというパターンが祭典の中で見られるので、笑いっていうのはかなり大事かな−って、大きな意味があるような気がします。

 子どもは集団でないと笑えない

 それと笑いっていうこととまたちがうんですけれど、今気になるのは芝居の世界に人れない子どもがふえてきています。じわっじわっとですけれど。そういう面白い世界に入れない子どもが増えてるっていう怖さっていうのかな。それはどういうことなんだろうと劇団の人たちとかなり話したりするんですけど、笑う以前の問題、人間として、笑う以前の子どもの心の内面の問題があります。笑える子はまだいいっていうか、やっぱり子どもは集団でないと笑えないんですね。
 十年前の一番おおきな祭典で島に行った時に、そこに幼児は一人しかいなかった。一人二人しかいなかったんです。ほとんど周りの近所で遊ぶか、生徒数が十何人っていう島では、幼児はテレビ見るしかないんですね。親子関係もないし、一緒に遊んで笑いあうというのがないんです。
 その島に行った時に、その子のお母さんが「うちの子の初めて笑う声をききました」っていったんです。このことにすごく感動されて、だから、お兄ちゃんもお姉ちゃんも村の人も一緒に笑うっていうことが、その子がケラケラと笑ったら、その子とみんながまた笑えるっていう、そういうことってすごく大事なことなんだなって、一つの笑いっていうことですごくありましたんで、よく意味づけしてください。

 押し付けはいやですね

中本    笑う以外に題材の話があったんで、私自身は人形劇でいろんなもの、飯田とかで見ますけど、原爆の人形劇とか、「トビウオは飛べない」とかいろいろありますが、少し押し付けみたいなものを感じちゃうんですね。人形劇を見てて、こんなこと知ってるかっていう・・なんか・・いらんって私はなっちゃうんですよね。だからあんまりそういう人形劇は私は好きじゃないんですよね。だから現実を見せるために人形劇をするのかなーって。そんな感じの人形劇はそうじゃないんじゃないかなーっていう気が私はします。
 でも本も向日性だから、児童文学なんかは非常に低く思われたりしますが、そうじゃないと思うんですね。やっぱりこれから生きて行くときに、まあさっきの話と裏返っちゃうけど、前を見て、将来未来は輝いているよっていって胸を張って生きて行ってほしい。子どもに応援歌じゃないけど、本はそういうもんであるなーっと思うんです。
 ただそれがいつもいつもハッピーだよってものを描くっていう意味じゃなくてですけどね、だと思うんです。
 名古屋のむすび座の「石の馬」とかありますよね。私はとっても好きで感動しました。でもあーいう人形劇好きじゃないって、なんかこう感動して、ちょっとこう貧乏で頑張って成功してって、好きじゃないってはっきり言い切る友達がいました。でも私はそう思わないんですけれども、なんかあんまりにつらいものはちがうような気がしています。笑うのは、すごく笑いにも種類があるから、やっぱりそこをどんな笑いを子どもにもってほしいのかということを考えて行かないと、違う方向へどんどこどんどこ走ってしまって。
 よく文庫の庭で焼き芋をするんですけど、あんまり今の子どもってしたことがなくて、最初したら消防車が止まってね、びっくりしちゃって、ああ、電話しなくちーゃいけないんだって言ったんですけど。それをするとみんなすごく喜ぶんですね。喜ぶっていうか、表情がちがうのがわかる。親子でちがうんですね。葉っぱなんかバーってかけて、普段きれいな洋服とか着てるのですよ。それを私はわざわざ汚してやるんですけど。と、子どもはすごく喜んでつぎ文庫にきたときなんか、アカがぱーっととれたように見えるんです。私はそういう笑いをしてほしいなって思う。人が転んで喜ぶんじゃなくて、うわーっと笑うなら笑うで、そういう人形劇のために人形劇を作ってほしいなーと。物語の流れの中で、なにか笑わすのじゃなくて、だからパンチくんなんかすごく好きですね。お巡りさんがガッガッガッとたたいたり、赤ちゃんが宙づるしになったりする人形劇がありますネ、ヨーロッパの伝統。あーいうの、私すっごい好きです。めちゃくちゃやれーみたいな、そういうのはそういうので、めちゃくちゃそういう人形劇があったらな−って私は思うんです。だからあんまり辛いのはいいです。

松本     ちょっとこの辺りで会場の方で。見ているときにね、自分たちが体験した中にこんなことがあったとか、逆に今発言されている方々にきいてみたいことがありましたら、どなたか発言願います?っていったら静かになるでしょ。小林さん、なんかあります?大阪市内の図書館館長していて。

 やはり笑いがバロメーターになってます

小林    図書館はとても貧乏なので、お金があんまりないんで、クラルテさんなんてめったに呼べないんです。オープンの時しか呼べなくて・・・、だから後はアマチュアで、それでそこそこっていう方にお願いして、なにせ謝礼金が7000円しか出せないものですから、お願いして、きていただいてるんですけども、どういう人をお呼びするかというと、やっぱり子どもたちがクァークァー笑う劇団は次もまた呼びます。来る子がすごく年齢層が幅が広いものですから、あまり笑いのないものだと小さい子がザワザワしてしまって、離れて行っちゃうので、それで大きい子も乗り切れないって感じもあるもんですから。
 それと技術的にやっぱり、セミプロっていうかアマチュアの方ですから、あまり子どもたちを乗せられないっていうのがあるのでね。そうすると私たちが見てて、あんまり子どもたちが喜んでいないなと、次はお願いしなかったりして。でもみんながワアーワアー騒いで、喜んだりしていると、あー面白がっているからということでお呼びしたりするんです。まあ、じっくり見てますと、さっきもおっしゃってたように、非常に繰り返しで、ドジを踏んで、子どもたちが「後ろにいるやん、いるやん」とか言ったりとか、「そんなんしたらあかんやん」とか、「おっさんおっさん、なにしてんねん」とかいって、子どもたち非常に口も悪いし、ワアーとやるんですけど、まあ見てると、つられて他の子たちもワアーワアー言ってますんで、何とか二時間、一時間から二時間の間、その間ずっと乗ってるって感じがあると、私たちも主催者側としても安心するわけですよ。
 はじめは乗ってるけども、なんかシーンとしてきて、ザワザワーしだすと、主催者側としてはちょっと良くなかったのかなーとか思ったりしますのでね。笑いというものをバロメーターにして、つぎお願いしますって感じになっています。

子どもの興味が変わると人形劇離れがおこる

 私、子どもが二人いまして、上の子は二〇歳で特に手をかけて育てたもんですから、しょっちゅうクラルテに連れていったんですよね。五年生ぐらいになったときから上の子がもういかないって言い出して。そのきっかけになったのはね、嫌いとかじゃなしに、見てて、終わったあと、「お母さん、あのときの仕掛けすごかったね」と、言い出したんです。ストーリーじゃなくて、ぱっと海が変わったりして、その仕掛けがあって、彼が学童に行ってて、ちょうど劇をするっていうので、そういう舞台演出みたいな大道具とか小道具とかに興味をもち始めたころに、ちょうどたまたま見たもんですから、自分たちのやっていることとはあまりにも遠う、その仕掛けのすごさにびっくりしたんだと思うんですけど、そういうのに興味をもち始めたとたんにもう見なくなっちゃって、楽しめなくなったのかどうか知りませんけど。
 下の子はほとんど手をかけなくて、クラルテもほとんど見につれていかなかったんですけど、今は私個人が好きで見てるんですけど、一度松本さんに言いましたけれど、非常に私も感情の起伏が激しくって、すごく落ら込んでいるときに、ものすごくつらい舞台を見させられて、その後本当に生きて行くのがいやになっちゃったのがあるんです。あーいうのはちょっといやだなーと思いました。

松本     そ−ですか。どなたか他にそういうふうな奈落の底に突き落とされた人形劇とかございましたか。ここには北海道から鹿児島まで、一応日本の端から端までいらっしゃることになってるんですけども、はいどうぞ。

 悪ガキが人形劇見て泣いたんですよ

参加者       僕、昔人形劇ってすごいんだというのを初めて経験したのは何年か前だったんだけどね。それはセミプロみたいな人たちがやってきて、地域の子どもたちに見せるのを見て、それが「泣いた赤鬼」の話でね、それを見て、普段よく知っている小学校五年生か六年生ぐらいの悪ガキどもが、なんちゆうかひどい連中が泣いていたんですよ。
 最後のセリフのほら、赤鬼が手紙を読んでたら、途中で青鬼の声にすっと変わっていくところでね、ぼろぼろ、ぼろぼろ涙流してるのを見て、「あ−すごいなー」というか、実際に目の前で人形でやられることで、ものすごい没入感っていうのか、すごいちがうなーって。絵本なんか読んでみても、やっぱりちょっとちがうものがあって・・・。

加用      前、松本さんに聞いた話だけどね、人形劇をやっててね、キツネさんがでてきた。終わったあとでその道具を片付けて、箱の中にキツネさんをいれてたら、子どもがトコトコやってきて、そのキツネさんを見て「ねえ、さっきのキツネさんは?」って聞いたっていうのが・・・。だからさっきまで生き生きとキツネさんこうやって、やっていたのに、今見たらよくにた奴が箱ん中にいて、なんかしょぼったままになってんのを見て、あれさっきとちがうと、さっきのキツネさんどこにいったのって、いう話を聞いたことあるけどー。
 人形劇の場合、子どもがそこの中に生命をすごい感じてて、目の前でやられることで、ものすごく臨場感をもって子どもにせまる。だからあーいう作り方によりて、子どもを泣かせることができるということ、すごいなーと思ったことが、初めての経験だったんですけど、だからそういう意味では笑わせるだけじゃない、子どもになんというか、ズシンとくるものがあるでしょうね、別に凄惨な悲惨な話だけじゃなくてもいい。

松本     土居さんお話ししたそうですね。

 人形劇らしいおもしろさの追求と作品選びを大切に

土居     人形劇のおもしろさの一つに、どんなものでも命を吹き込むことができるということがあると思うんですね。加用先生がおっしゃったように、こどもは、動いていないキツネは、さっき動いていたキツネと違うと感じます。これは、子どもの想像力が無意識のうちに総動員されているということで、人形劇の見方、楽しみ方を子どもが獲得しているということです。これは、子どもが実際生きていく上での、社会の見方、考え方の幅を広げることにつながると思います。そういう意味で人形劇っていうのが、やっばりすごい、小さいこどもにとっても、大きい子どもにとっても、いろいろな意味のある文化(メディア〕だなあ。
 もう一つは、作品選びの大切さを強調しておきたいということです。例えば、今回の作品には昔話がたくさん上演されてましたが、その昔話を今、この時代に子ともたちに見せる意味は何なんだろうなということをもっともっと考えてほしいなと申し上げて終わりです。

 人形で話し掛けると面白いですよ

中本     この前、文庫でこんな大きな腹話術の人形を使ってみました。それはよく動いてとっても面白い人形なんですね。腹話術はできないんで普通に動かしたんですけど。そしたら一歳の子が普段はちょろちょろ、ちょろちょろとして、全然静かに読んでない子なんですけど、えっと、二歳の子かな、私がそれを使って話しかけたんです。そしたら急に静かに座って、本当にお利口に座って、「ねえ、君なにしてんの?」ってきいたら、普段本なんか読んでないくせに、「本読んでんの」っていうんですよね。「あーそうなの」なんて言ったら「そうなの、本読んでんの」って言ってね、一緒に読もうとするんですね。だから人形ってなんなんだろうって、今までもわかってなかったんですけど、すごいものなんだなーって思いました。
 文庫の子なんで小学生までいるんで、当然のことながら年齢が少し上がった子にも、順番にやってみました。二〜三歳の子は怖がるんですよ。そうじゃない子もいるけど、やっぱり多少怖がって、ぶきみだなって目でこちらを見るので、あんまり乗らないので止めようということで。途中でやめちゃったんですけど、ちょっと年齢が上がって幼稚園ぐらいの子にやったらもうわかってるんですね、現実とのその違いが。だから「やれやれや、やれっ」て、やんやで、言うんですけど・・・。ほんとにちいちゃい子は面白かったですね。やるのが面白いっていうぐらい、話しかけて行くと、「君と僕のズボン同じだね」なんていうと、すごく恥ずかしそうに下を向いて。私が話しかけてもそんな表情は見せないんですよ。お母さんにくっついちゃう子なのに。人形がすると本当に恥ずかしそうに嬉しそうにしてるんですね。感情をもろに出してきたんですね。だから人形って面白いな。やっぱり人形劇やっていきたいなって、その時思いました。

松本      そうですね。人形劇ってすごいって感じるような情景で、嶋さんなんかとっておきのお話しありませんか。

 子どもは現実の厳しさが身体にしみている

嶋      さっきも、去年も、なに見せてもらったかなって忘れちゃりたりするんで、今の話がなかなか答えられないんですけど、昨日も「ぞうくんのさんぽ」を見たときに「ぞうくんのさんぽ」は何回も見てるのに「え−ぞうくんのさんぽってあーいうのだった」っていうふうに思って・・・見てると思い出すんですけど、「ぞうくんのさんぽ」うちの園で二回ぐらい見たと思うのに、あっ箱の中からあーいうふうに出て来て、最後はこういうふうにしまってくって、そういうふうに見ている私には、笑いとかしんどさとか、いろいろ表現されていることと、ちょっとちがうことをね、自分は思っているんだな−っていうのを感じています。
 子どもたちは、現実社会、世界っていうか、毎日の生活で非常に、もうしんどさとかね、つらさとか、自分で言えないけれど、いろいろの形で、自分の生活の中でしみこんでいるっていうかなー、そういうことを感じるんですよね。だからみなさんの、いろいろ文庫とかでやられているところにこられる子どもさん、一部って言ったらいけないのですけど、保育園にはいろいろな子どもがいるのでね。
 例えばお母さんとの関係で、お母さんと一番いい関係でいられるのは、あの進研ゼミを一縮にやっている時っていう子がいるんですよね。その子はお母さんにいいって思われるのは、そのことを一緒にやっている時で、でお母さんはそれを「Yだって喜んでやっているもん」ていうふうにいうわけですよね。それはお母さんがいいっていうふうに表すから、お母さんがいいってことには自分は合わせていくっていうね、そういう子たち、数えあげればきりがないっていうぐらいいて。
 例えば保育園で、職員室にまでくるからどうしたっていうと、だいたいお尻にウンチがついているんですよね。で、便所に行ったらなかなかウンチがでない子だったんですけど。その子のお母さんにその話をすると「先生たちはやさしいからだ」って。うちではYをオマルにかけてずーっと出るまでさせとくから、もらさないでちゃんとするっていうお母さんだったんですけど。
 その子がある日保育園でけがをしてお医者さんに保育園で一回つれてったんですけど、つぎの日お母さんがお休みできるから、「私がつれていきます」っておっしゃるんで、じゃあお願いしますっていったらYくんは絶対おかあさんとは行きたくないっていうんです。せっかくお母さんが今日お休みして連れてってあげるって言ってんだから行こうよって一生懸命言っても、「いやだ、先生と行きたい」って言って、とうとうお母さんは帰ってしまって、うちの職員がお医者さんに連れて行くっていうことがありました。で、お医者さんに行ったらしっかりがんばらなきゃいけなくて、痛いとき、痛いって泣けないっていうのがその子にはちゃんとわかっているっていうかな・・・。

 生活体験を駆使してイメージを広げられるものを

 何を言いたいかというと、そういう子どもたち、親子関係の中でも非常に厳しい状況のなかでいる子どもたちで、だからさっきの生きて行くつらさ、しんどさをどういう人形劇で表現するのかっていうお話しもあったんですけど、私はあの絵本にしても、絵本と人形劇はまたちがうんだと思うんですが、やっぱり子どもたちが目の前にないものをちょっとした人形とか、絵本とかという・・・ちょっとしたって言い方へんですけど、それは作者がすご−くふかーく考えてかかれている・・・でも子どもにとってはちょっとした自分の生活体験、一歳だったら一歳の生活体験、二歳だったら二歳の生活体験の中から、出会うのはそれぞれ違うと思うんですけど、でもそういうちょっとした出会いから、その奥にある目に見えないものを想像していくとか、どんどんイメージを描いて行く。そういうものが、子どもにとって、幅のあるものを全部語られていたり、全部おしつけられていたり、笑うべきだとか、泣くべきだとかって、そういうふうふうじゃなくて、ちょっとしたところで、もっともっと自分の生活体験を全部駆使して、もっとイメージを広げられるようなもの?だからそれにはやっぱり、その子たちの生活体験、日々ののいろんな経験が豊かでなければいい作品を見ても、それを見てそこからうーんとイメージを広げていくことはできないなーていうふうに思うので、そういう意味では毎日の家庭での生活や保育園での暮らしが重要になってくる。

 いろんな笑いが生活のこまやかな部分にないと

 だからクラルテのを見ても本当にそれに共感したり、もっともっと広がりのある受け止め方ができるかどうか、私たちの日々の保育にかかってきてるなーっていうのをつくづく思うので、どれがいい作品かとかっていう議論とはちょっと私自身が今この場にいて違うことを考えているのかなって思っていて、なかなか発言がしにくかったんですけど、そういう点でクラルテの人形劇が好きなのです。
 押し付けじゃない、子どもたちがそれぞれに違った受け止め方をしても、そこから自分の余りの部分で、自分で広げていける、そういうゆとりがある人形劇だなっていうふうに思えるんで、また好きな話しかしませんでしたけど。
 現実社会では子どもたちは相当つらい状況にあるのでね、だから本当に笑いっていっても、ニカーっとするっていうかな、ウワーって思える、得たりって思える時の笑いとか、あんまりハッハッハッって笑わなくても、あーこれでいいんだという時の満足した笑いとか、そんなのが木当は生活のこまやかな部分でたくさんないといけないんだなーって、つくづくく今日の話を聞いて思いました。

 人形劇の使命感みたいなもの

松本       ありがとうございました。嶋先生のところに公演班がいって、今のようなことを言われて帰ってきたんですよね、役者がね。自分のやってきた保育がまちがっているかまちがっていないか、クラルテの人形劇を見て確かめてるみたいなことを言われたことがあるんですよ。
 そして、私が住んでいる岸和田ってとこなんですけど、これは市がお金を出して、全公立の保育所に見せるんです。一年に一度必ずクラルテの人形劇を見るんです。もう二〇年近くもつづいてきたから、やっぱり保育園で園長先生とお話ししたときにそういう言葉がでますよね。それなのに、先生が毎年三月にLたいとか二月にしたいという時に、劇団の方は、そんなこと言ってもうちは今年忙しいから五月にしてとか言ってましたね。人の苦労もしらずに。
 そういうことを聞かされて初めて自覚するんですよね、自分たちの仕事がなんなのか。最初は好きとか、自分の人生を模索していて、どうして生きて行ったらいいかわからへんで、なんかしらんけどクラルテに行き当たったみたいな、そこに行ったら面白い人間がいっぱいおった。気にくわんのもおった、喧嘩して、泣いて、笑った。私は、その中で二〇代の青春して、こういう場所に引きずり込まれて、自分の仕事の自覚っていうか、なんて大それた仕事をしているんだろうっていうことを自覚していってるというか、だから今日もそういう意味で言われている訳なんです。あなたたちの仕事はそうなんですよっていうふうなことを。そして、会場にいるみんなもそういう目で私を見ている。
 それを受け止めて作品づくりをどうしていくかっていうことが、このシンポジウムのねらいだったんですけど、時間がね、十二時半までということで、あと十分ぐらいしかないんですよね。最後にどうしてもダメ押しをしてみたいとか、会場の中で今後のクラルテのためにこれだけは言っといてやろうとか、これからの人形劇のためにこれだけは言っといてやろう、という意見が、もしくはこちらの方でもう一言二言発言していただければ・・・どうぞ。

 子どもたちの周りで人間に出会える環境を

     なんていうのかな、私もすごく子どもたちの状況が気になって、劇場もなかなかそこまでいけないなっていうのもあって、今、優しい人形劇だけでいいとは思わないけれど、今、こどもたちにとってみたら、すごくそういう人間に出会える場って少ないと思うんですよ。そういう本当に人間性の本質にふれられる、周り近所のおとなとか、どう生きてもいいんだけど、人間関係が希薄になっているから、だからこそ、そういうものを大事にしたいなっていうのが一つと、だからそういう環境を考えていくときに、演劇を上演するだけじゃなくて、一緒に子どもたちの生活を考えて、なんかできることを、ワークショッブだったり、私たちの話でもいいし、そういうことをこれから一緒にやっていけないかなーっていう思いが一つにはあります。

 みんなでね、たくさんの子に人杉劇を

中本     私は親子劇場ってすばらしい機構だなーと思うんですが、私自身は個人的にやってます。親子に入ってないと見れないっていう人形劇がすごく多くて、その時だけ入って出るというのはできないんで、いやだなーって思うんです。だから親子ではなくて、そういうネットではなくて、ここに来ていらっしゃるみなさんがね、自分で呼べるって、私もできたから、みなさんもできると思うんですよね。本当にポストの数ほど文庫っていうんですけど、十万円で呼べるんだから、何人かで呼べば何とかなるって思うんですね。だからたくさんの子にクラルテ、クラルテだけじゃないですけど、見れるような動きっていうのか、みなさんがしていけたらとってもすてきだなーと思います。

 現実を知識として見せるのではなくて

土居     人形劇のおもしろさっていうのは何かということですが、一つは、人形というのは、人間よりも動きがぎこちないということが言えると思います。動きが制限されるということは、幼児が思うように自分のからだを動かせないぎこちなさとつながり、それが笑いにつながるのだと思います。一方で、人形の動きがある部分、誇張されたり、強調されていたりすると、それが人間の性格のある部分を象徴することになります。
 私が先ほど、現実を見せると言ったのは「原爆があったんだ」いうような知識を教え込むという意味ではなく、人間の感情にはいろいろあって、「ああ、人間っていうのは、こういうもんだったんだ」っていうのを、見ている者が感じられるような作品を見せるという意味です。つまり、人形劇のキャラクターが持つ象徴性を最大限に生かして、松本さんが言われた別れや、つらさまでもを表現する。結末がハッピーエンドで終わらなくても、見終わった後に生きる力が感じられる。そのような作品であれば、必すいつも楽しくて幸せで優しくなくてもいいのではないかと思うのです。

 子どもを喜ばせるテクニックを広げる責任も

加用      僕は作日十四本も見てね、あー僕なんかじゃなくて、もっと若い学生とか、保育所の保母さんなんかの若い人に僕の代わりに、そういう人たちをつれてくればよかったんだと思いました。というのは劇団の人たちがやっぱり、こどもを楽しませるというテクニックをすごくもってるなーと思って、そういうのを少しでも吸収してやれたら、保育者として技量がアップするだろうなーという部分がすごくあったね。だからそういうことを普及する貴任ももっているのかもしれない・・・。やっぱりその道の達人はやっぱり鍛え上げられた技術も持っているわけでしょう。そういうとただ笑わせるだけじゃないかって言われたら、う〜んだけどね。でもそれだけでも保育者はそういうのを身に付けられたら、かなりアップするなーとつくづく思って、僕よりそういう人を連れてきたらよかったなーって、昨日十四本見ながら思いました。

松本      ありがとうございました。

会場から    あのさっきも藤さんの方からもでましたけど、まあ今日はわりと幼児っていうか、低学年の子どもたちのことイメージしながらの話が多かったんですが、子どもでも、子どもって言ったときに自分を振り返っただけとか、他の人に照らしたりとか、先を見通そうとしているような時期にきている子どもたちとどう出会うのか、クラルテがどう出会うのかというのと、その時にいわゆる近松なんかの古典の作品なんか、幼児の時に人生のつらさっていうのは、僕も幼児期を振り返って、そんなことが残っているかといいうよりも、ワンショット、ワンショットの風景のいろんなそれは残っているけど、でも逆に近松とか、ああいう作品に出会って、触発される子どもの時期っていうのもあるだろうし、そういう出会い方?そのこともぜひ、考えていただけたらいいなと思います。


この後、何人かのご意見をいただいたのですが、録音が不鮮明で記録できませんでした。また、当初活字にする予定はなかったので、会場からの発言者については、お名前がわかることを考えていませんでした。関係者の方々には深くお詫びいたします。


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