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 五〇周年記念のフォーラムです

松本   おはようございます。(おはようございます)。朝早くからどうもありがとうございます。「こどもが人形劇を見ているとき」というシンボジウムを始めます。
 この催しは人形劇団クラルテの五〇周年記念事業の一つですと言いますと「ええー」と驚かれた方がいらっしゃいます。クラルテは毎年、このような催しをしていると思っておられたようですが、こんなことを毎年やっているとクラルテはつぶれてしまいます。
 五〇年間幼児を対象に人形劇を作り続けて、子どものことを考えてきたつもりですが、本当にこどもに向かって前向きな、真撃な作品を作っているのか、一時間半子守をしているだけじゃないのか、子どもが笑うのをみてただ単に喜んでいるだけじゃないかという不安が常にあります。
 「笑い」も生きて行くための笑いなのかという問いかけが、常に自分の中にあるわけです。全児演の雑誌『げき』に、西村が「幼児と感情の共有をもとめて〜」ということを書いています。この感情を共有するということですが、私がクラルテに入った時・・・あっ、いきなり難しい話に人っていますが、その前に、実は、これは劇団員が勉強するために企画したのです。劇団員が聞き、ついでに皆さんにも聞いてもらおうという企画でスタートしました。
 ところが浄るりシアターの二日間のプログラムを組み立てている内に、二の時間はセロ弾きのゴーシュの準備をするということになり、劇団員はここにはいないことになってしまいました。劇団員から「何を考えてんねん」としかられています。それで、このマイクとビデオを活用して、後で勉強することになってしまいました。ですから皆さんは、今日はクラルテのために参加している訳です(笑い)。
 それで、私がクラルテに人った時には、「こどもの立場に立って」と言っていました。こどもの立場ってなんやろかと考えているうちに、「こどもの目線で」といい始めました。子どもの目線ということで、心斎橋でしゃがんで見たら、これはこわかった。大人がぶわ〜っと通り過ぎ、カバンが目の横を通って行く。それで、子どもの目線て恐怖やなという冗談を言ったりしていたんです。もちろん劇団員は四〇人いますから、四〇人ともそんなことを考えているわけではありませんが。今気にいっている言葉が、「こどもと感性の共有を求めて」です。
 幼児というのは訳がわからないんです。私たちと形も違う三等身で人形劇の人形と同じ形をしていますよね。そういう子どもたちをどう考えたらいいのかを、皆さんと一緒に考えたいということで、昨日皆さんに難行苦行していただきました。朝九時四〇分から夕方六時まで、七種類十四本の人形劇を上演。全部つきあって頂いた方もいらっしゃいますし、途中からつきあって下さった方もいらっしゃいます。休み休みつきあって下さっている方もいらっしゃいました。クラルテの人形劇を見ながら、それを見ているこどものことを、今日はゆっくりと二時間かけてお話してみたいなあと。
 パネラーのご紹介を致します。加用文男さん、京都教育大学で発達心理学、ですよね(笑い)、「こども心と秋の空」という本を出しておられます。子どもの心がいかに変わりやすいかという本です。持ってきて売ればよかったですね、本屋で買って下さい(笑い〕。
 次の人が大阪国際児童文学館の専門研究員の土居安子さんです。この方の専門もちょっとかわっていて、普通の子どもの本の研究ではなく物語を体験するという、劇と文学の中間みたいなことを一生懸命しておられる土居さんです。
 そのお隣が私もここで初めてお会いするのですが、嶋さなえさんです。知る人ぞ知る人らしいです。といいますのは保育関係の本にいろいろとお書きになっていらっしゃいます、東久留米市立ひばり保育園の園長さんです。
 そのお隣が劇団では「よちよち文庫」といっている相模原で子どもの本の専門店をしておられる中本茂美さんです。
 最後の方が、離島にも生の舞台芸術を届けるということを十年続けられている鹿児島県こども劇場おやこ劇場連絡会事務局長の藤英子さんです。
 順番に10分ないし15分ずつお話をしていただいて、それから皆さんの質問を受けまして、またこちらから返して行くというふうにしたいとおもいます。それではよろしくお願い致します。

 幼児の経験は体に染み込む

加用   おはようございます。京都の教育大で幼児教育課にいます。心理学を教えているんですが、何でここに座っているのか自分でもよくわからないんです。普段文化水準の低い人間でね、劇とか人形劇とかそういうのほとんど見たことがない、ほんとに何年に一回。よく行く保育園の先生がね、お誕生会にやっているのはよく見るけど、いわゆるちゃんとしたものは見たことがない。だから今日はきっと「素人を連れてきて見せたらどんなものか」というのを聞いて見ようかと思ったんじゃないかと思うんですけど。昨日十四本も立て続けに見て、これでもう一〇年はだいじょうぶだという(笑い)感じがしたくらいでね。何しゃべんだろうという感じなんですけど。
 保育園を卒園して、四年生とか五年生くらいになってから同窓会をする園があるんですよ。そういうのは面白いから。情報があるとすぐのぞきに行ったりするんですよ。ろくに覚えていない乳幼児の時のことをしゃべってるのに面白いのがあってね。昔、だれそれが牛乳飲むとき、あいつだけパックで飲んでいたとか言う子がいるんです。それをよく覚えているという子がいるんです。何でかっていうと、おやつのとき、牛乳のむのにみんなコップに配って、最後の子だけはコップではなくて、パックの残りを飲んでたって。あいつだけがそれを飲んでたって、俺もいっぺんあれをやりたかったって。それを覚えているというんですよ。
 それから、その類いのことを聞いてみると、土管の中に座ってたとか、年長の時にやった劇のタイトルは覚えてないけど、そういうことはよく覚えてる。
 乳幼児や幼児の経験っていうのは、あとになってはっきり記憶に残るような形じゃなくて、たぶん体にしみこむような形で残るんだろうなと思うんですね。だから、それだけこわいと言えばこわいし、すごいと言えばすごいというもんなんだろうけど。
 僕ら大人になってから、食べ物でも、好きなものがあったり、嫌いなものがあリたりね。人間だって何となく、この人と肌があって、この人とは合わないとか。ある人は劇を見てもある部分はとても面白いけど。別の人は面白くないという、そういうことの違いはおそらく、体の中に染み込んだようなものがでると思うんですけど。だから、感性とかいうのは、きっとそういうことなんだろうと思うのです。何でこれ面白いのと、言われても困っちゃうような、そういうようなことなのかなと思うんですけど。

 笑いもいろいろあるね

 昨日もとにかく一四本も見て、人形劇というのも作り方というのは多種多様なんだなと思って、ほんとに素人でびっくりしたというか、演じる人が黒子になってやる人もあるし、前面に出て来てやったりする場合もあるし、目の前で道具つくりながらやるなんてものもあるんだしねえ。中身もアフリカのすごい幻想的な美しいやつあったでしょう。ぼく、それを見ている時すごいショックでしたよ。近くにいるお母さんたちがうっとりしながら見てるでしょ。ぽくは全然うっとりできなくて(笑い)。これはきっと自分の人格のどこかに欠陥があるんじやないかと思えてきました。ぼくのすぐ近くに、中学生らしい男の子がいて、こいつはどうだろうと思って見ていましたら、そのこも「あ−あ」という顔して見てました(笑い)。だからきっとあの子もぼくと同じなんだなと思ったんだけど、まあ、そういうようなものね。人による感覚の違いというのがあって、ぼくみたいながさつな人間はね、こういう作品をうっとり見る人間はえら一いなと思いながら、自分は「えー」と言って見ていくんだろうなと思ったりして。
 他に、キャッ、キャッ、キャッと笑いがよくでてくる作り方とかね、全然ちがう作り方をしているのもあって子どもの笑わせ方にもいろんなテクニックがあって、それをいろいろ使われてるんだなあというのも思いました。
 面白かったことに、「ゴリラのパンやさん」のように、こどもはよく、動物がでてきて、歩き方とか、ゴデッとかいって転んだりすると、ガーッと笑うじゃないですか、何か失敗したりね、ドジなことをしたりすると、そういうのを喜ぶというか、笑う。おとなはだいたい人が失敗した話というのは面白いと思うけど、だれかが成功した話っていうのは面白くない(笑い)。だれかがひどい目にあったとか、つらい目にあったとか、なんかバカなことをしでかした話っていうのはだれだっておかしいでしょ。そういう意味では当然といえば当然なんだけど。でも、「ゴリラのパンやさん」がね、お客さんが来てくれなくてガックリっていうときはね、こどもはそんなに笑ってないんですよ、シーンと見ているから、ああいうドジ踏んだり、悲しいつらい思いをしても、笑うときとね、笑わないときというのがあって、子どもはそういうことを見分ける力を持ってるんだろうし、そういうのを身につけているんでしょうね。
 そういう経験を通じてね、何か笑い方にもいろいろある。お追従みたいにして笑う子もいるし、いったん笑い出すと笑いが止まらなくなって、ケタケタケタ、何で笑ってんだろうっていう感じで続く場合もあるけど。作り方によって、笑い方がほんとに心で面白く笑っているときもあるし、何か笑ってしまいましょうという感じで笑っているときもあるし、それから笑うはずなのに、笑わなかったりね。
 おとなと子どももちがうね。例えばグリムの「ホレのおばあさん」、あの時に意地悪お母さんと娘と、人形がいかにもぶさいくなのときれいなのと出てくるでしょ。おとなはあれを見るとすごくおかしいから笑うじゃないですか、でも子どもは別に笑ってないし、意地悪お母さんが何かどぎついことをするとおとなはどっと笑って、子どもは別にそんなに笑ってないというか、そのへんの落差がすごくあるなと思って、こどもと一緒におとなが見てるときに落差がでてくるというのが面白いことだなと思いました。

 保母さんの笑いと幼児

 全然別の話なんですけどね、僕は仕事で一週間に一回ぐらい保育所へ行くんですが、大学にいるのが嫌だから保育園に逃げてるんじゃないかと言われるぐらい行ってるんですけど、○歳児とかね一歳児とかの保育しているところを見てるとね、ある時気がついたんですけど、先生たちの私語がものすごく多い。
 保育しながら子どものおむつを換えたり、ミルクを飲ませたりしながらね、年中担任の先生同士がベチャベチャペチャ私語をしている。「お宅の娘どう?」みたいな話でね。「この前買ってきたあれはどうした?」「炊飯器がどうしたの」とか、「タンスの引き出しが出ないど−のこーの」と、そのたんびに先生がギャーて笑いあってやっている。赤ん坊はなんでしようかという感じなんですけど。おとなが回りでギャハハ笑ってたりする、そういう雰囲気の中で保育が進行していくということが普通のことなんだろうと思うんですね、それをうちの保母たちはもう年中私語ばかりして、さぼってばっかりなんだとか、そういうせせこましい発想ではなくて、自然に進行しているというのは、そういうもんなんだと思って、僕もその光景が面白くって時々そういう私語をこっそり録音したりしてんですけど(笑い)。だから、一緒におとなと子どもが見てて、その笑いに落差がおきててもそれはそれでいい光景だなという感じをもったりしました。
 もう十分ぐらいたったんじゃないかな。まだたってない?そのくらいにしておきましょうか。

土居    矢礼します。先ほどご紹介いただきましたように、私は大阪国際児童文学館に勤めております。人形劇については素人なんで、ここにいるのは場違いな気がしますが、感じたことを少しお話させていただきます。
 私は、職場では、いつも活字などの印刷されたメデイアから、子どもにどんな物語が届けられるかということを考えて仕事をしています。そこで、ここでは、私が見せてもらった人形劇がどんな物語を届けていたのだろうかということを考え、今後につながる課題を考えてみたいと思います。
 全体的な感想としては、たいへん楽しかったのですが、それと同時に、子どもが物語や人形劇というものが、こんなものだっていうのがわかるように作られていたということが言えると思います。それは、幼児、子どもにわかりやすいような反復がたくさんあったり、物語として起承転結がはっきりしていたり、昔話と同じように、予想した通りの結末が用意されていたりということに現われていると思います。
 しかし、すべてがすべてという訳ではなくて、本当にここで反復が必要なのかと思うこともありました。これは、先程の笑いともつながるかもしれませんが、笑いをとるための反復なのか、物語全体の中で意味のある反復なのか、つまり、反復による強調が必要なのかということを問い直す必要があると思われる作品もありました。同様に、構成が乱れていると感じられる作品もありました。

 キャラクター造型の特徴

 キャラクターというのは、人形劇の中でとても重要な要素だと思うのですが、全体的に、クラルテの作品は、弱い者ががんばって強い者をやっつけるという作品が多いと思いました。オオカミが出てくる作品が四本あるんですが、そのすべてのオオカミのキャラクターが「3匹のこぶた」に見られるような既存の昔話の強いオオカミのイメージではありませんでした。すべて、弱かったり、だめなやつだったりしたのです。これは、弱い者に対してがんばろうというクラルテのメッセージが象徴的に現れているのではないかと思います。

 人形劇をみる子どもの視点

 それから、クラルテの作品を見ていて、いいなと思ったのは、感情移入できるような登場人物が用意されているということです。つまり、こどもの視点から作品が作られているなと思ったんです。
 ただ、ある登場人物に感情移入をさせながら、それと敵対する登場人物に急に感情移入をさせると、見ている者は不安定な気持ちになります。たとえば、「ぶたのたね」では、最初子どもたちは、オオカミにどっぷり感情移入していました。ところが、途中でちょっとぶたに感情移入するように仕掛けられている場面があって、私白身、少し居心地の悪い気持ちがしました。
 オリジナルの作品は、佐々木マキのナンセンス絵本で、読者は、人形劇よりもう少しドライな、絵本から少し離れた位置でぶたとオオカミの関係を客観的に見て楽しむというように仕掛けられていたと思います。それを、人形劇として作りかえる時に、もし、人形劇の特性上、オオカミに感情移入させる必要があるとすれば、全体がどう変化するのか、いま一度見直す必要があるのではないかと思いました。

 現実をこどもにどう見せるか

 人物像に関しては、全体的にいい人が多いなと思いました。このことをクラルテが今後、どう考えていくのか、私自身とても楽しみにしており、また、今日の議論にもなるかと思うんです。
 今、幼児も現代社会に生きていて、当たり前ながらテレビでは、残酷なこともいっぱいあるし、いろいろな家族の中にいたら、人間としていい人ばかりではないですよね。親に虐待を受ける子どももいる、そういう現実社会の中で、人形劇は、だからこそ、夢のあるものを見せるんだというのか、それとも世の中を反映した人形劇を見せるのかという問題に直面Lていると思うのです。もし、現実を反映させると考えるならば、たちどころに幼児に暴力をどう見せるのか、幼児に暴力をどういうものとして伝えて行くかという問題が生じます。同様に、現実のさまざまな人間を表現しようとすれば、人間の内面のドロドロしたものや、葛藤や醜さを表現しながら、「ホレのおばあさん」のようなステレオタイブではない、もう少し複雑な人間像が描き出されるはずです。この辺りがクラルテの今後の作品に期待したいところです。

 笑いや音楽、舞台装置を大切にした人形劇

 それから、クラルテの人形劇の特徴として、笑いを大切にしているなというのは、先ほど加用先生がおっしゃったことと共通して挙げられると思います。ただ、その笑いの質というか、どういう笑いを子どもと一緒に共有していけばいいのかというのは、もう一度問い直す必要があると思いました。
 また、音楽がバラエティに富んでいるという点も、クラルテの人形劇をおもしろくしている点ではないかと思いました、昨日の雑談の中で、西村さんが、「生の音楽や生の声っていうのが、子どもの感性と響きあう」ということをおっしゃっていました。今回は、いろいろな民族楽器が使われて、さまざまな生の音楽が子どもに共感の場を保証していたと思います。ただ、歌に関しては、もう少し練習されてもいいかと思いました。
 舞台の仕掛けが楽しいというのも、クラルテの人形劇を楽しめる要素ではないかと思いました。また、後で機会があれば少しお話しできるかと思いますが、人形劇というのは、何だろうということをこの一四本を見ながら、ずっと考えていました。その中で、人形劇の特徴の一つに、人間ではできないようなことができる。つまり、空中返りがビョーンとできたりとか、いろんな仕掛けが目の前で繰り広げられるということがあると考えました。クラルテの人形劇はそのような人形劇ならではのおもしろさを生かそうとしているなと思いました。

 オリジナル作品をもっと

 その他、気がついたこととしてし、今回たまたまかもしれませんが、オリジナル作品が少なかったということが挙げられます。もちろん、原作があってはいけないということではありません。しかし、今回一四作品中、昔話五本、児童文学、絵本の原作のある作品が六本、オリジナルが三本でした。やはり、人形劇の作品を見せる時には、人形劇らしいおもしろさを追求してほしいので、この三本をもっと広げてもらいたいなと思いました。
 たとえば、オリジナル作品の中には、「たまごまごまご」がありました。その中でタマゴが出てきたくないときに、コロコロコロと何度も目の前でころがるというシーンがありました。このようなシーンはセリフやことばで説明されるのではなくただ、タマゴが転がって行くのを見せられることによって、タマゴの気持ちが臨場感を持って伝わってきます。このように、オリジナルの人形劇は、人形劇の見せ場がとてもよく計算されていると思ったのです。

 クラルテとの出会いについて

   えー、はじめまして。こ紹介いただきました、東久留米市というところなんですが、東京から一時間ぐらいはなれたところの自治体ですが、東久留米市の公立保育園で「ひばり保育園」というところで働いておリます。よろしくお願いいたします。
 すごくきちっとしたコメントをされた後に話しするのは困っちゃって、加用先生の後の方がよかったかな。(笑い〕あ、それは嘘です。加用先生はとても人をリラックスさせるのがお上手だから。
 私とクラルテとの出会いはもう二十年ぐらいになると思うんですけれども、個人的になりますが、こちらのメンバーでいらっしゃる日隈さんの義理の妹さんが私と保母学院で同期だったんですね。そういう関係で大阪と東久留米市って、なんの関係もない訳ですけれども、日隈さんが私のいた保育園に訪ねてこられて、それがなかったら、私も今日はここに座っていないと思うし、そういう出会いがあって、クラルテの人形劇を知ることができました。
 当時はまだ各園で人形劇団を呼んで見るという予算もありませんでしたし、親の方たちの自前で、私たちが引率して、東京・新宿とか、有楽町とか、そういうところまでわざわざ集団でね、電車に乗っていかなければ人形劇や、生の舞台芸術っていうものにはふれられなかった時代なんですよ。そこにクラルテとの出会いがありまして、クラルテの人形劇大好きの保育園になった訳です。その後行政もいろいろ変わって来まして、今は東京都が地域活動事業という、予算を補助金なんですけれども出していまして、その補助金やらそれから父母会の財政やら、個人的な負担やらで、身近なところで人形劇を見ることができるようになってきたんです。
 クラルテは大きなところで大作もいろんなものをされていますよね。それから草の根的に地域に入りこんでもいますよね。ひばり保育園でも狭いホールでね。昨日も、あちこち三ケ所で見ましたけれども、どちらかというと一番せまいお部屋ぐらいのホールに80人ぐらいの子どもが、ござをしいて、ひざを抱いて、つめて見るんですね。そういうふうに身近なところで見れるようになったことはとってもうれしいなあってことなんですが、それを届けてくだきる方に出会って、その中身がとってもよかったので、やっばり今まで続いてるんじゃないかなっていう風に思うんです。

 毎日の保育が困難に

 そんなことばっかり長く言っているといけないんですけれども。今、わたしどもの保育園だけじゃないと思うんですけども、子どもたちの状況はなかなか、なんていうんでしょうか、育てにくいというか、子ぎもから言えば育ちにくさを背負わされているというか、そういう現状で非常に毎日毎日の保育が困難なんですね。例えば身振り表現とかそういうのを楽しみながら年長になると、人の前で劇をやって見せるとか、ぺ−ブサートを演じるとか、人形劇をするとか、そういうふうに、普通に保育の取り組みをやっていて、やがて、2月3月にはそんな取り組みができるのが今までの保育ではずっと経験してきたけれども、今のこどもたちはすごく評価を気にしていたり、出来栄えを気にしています。
 本当の自分がなんかうまく出せないでいる子がすごく増えているんですね。それは劇を表現するっていうことともつながったり、運動会なんか、何かをするんだっていうことでも異常にのびのびとできないっていうか、それが一部の子どもだけじゃなくって、だんだんそういう子どもたちが増えてきています。
 そういう評価を気にするということや、自分がこれでいいんだってなかなか思えていなくって、それの裏返しが、すごく人とかかわるときに緊張したり、特別なことがある時に本当に緊張して荒々しくなってしまったり、平常でいられないこどもさんの姿に出会うもので、そういう意味で保育が非常に困難になって来て、今までやってきた行事だけじゃなくて、日々の保育が大事なんですけれども、日々の保育のやりかたも、大きな行事のやり方も本当に根本から考えなおさないと、今、目の前にいる子どもを育つ方向でとりくめないという悩みがすごくある現状なんです。
 こどもが変わったのかな?って思うと、子どもが育てられる環境や家庭での親子関係や教育関係を含めてすごく変わって来ていて、こどものそういう表し方が変わってきたのかなっていうふうに思うんですね。

 こどもの劇を見る力で保育がわかる

 ひばり保育園に私がきてからもう十五年なんですが、初めからクラルテにきていただくようになったので十五年間、クラルテの人形劇を毎年一回か二回見つづけてきてるんですけれども、去年は日程の関係で来ていただくのは十月だったんですね。去年の一年間の保育がなんかとても大変だったので、クラルテの人形劇が本当にしっとり見れるかどうかがすごく心配だったんです。
 もちろん何年も見ているので、期待してまっている訳ですけれども、ホールに大勢の子どもたちが集まったところに入って行くことをすら緊張してしまう子どもがいるなかで、みんなでクラルテの人形劇が見れるかなーって。それが見れるか見れないかっていうのが、これからの保育がどうなのかなとか、今までやってきた保育がどうだったのかとか、今日現在やっている保育がどうなのかっていうのをなんか試されてるようなね、そんな気がして。ここぞという時にね、気持ちをこめてね、受けとめられなかったりしたら、残念だな−っていう風にドキドキしたんですけども、去年の十月にやっていただいた作品も、こどもたちがすごーく興味を持って、しっとりと見られたんですね。
 そのこどもたちが、次の日また、緊張関係が出てきた時に荒々しくないかっていったら、そうじゃないんですね、また、同じようなことが次の日も次の日もおきるんだけども、いいものに触れた時はこどもがね、そういうふうに見れる、そうなるんだって。だから、やっぱり、こどもの本質って変わってないのかなって思えたことが、次の日からの私たちの保育の確信になるっていうか、あー大丈夫かなって思えた、そんな出来事がありました。

 こどもとの掛け合いが自然

 私がっていうか、私たちひばり保育園の職員も、子どもたちも含めてですが、クラルテが好きな訳ってたくさんあるんですが、加用先生も土居さんもおっしゃったことと、ちょっと重なっちゃうんですけれども、長くならないように好きな訳をずらり羅列してちょつと言って見ますけれども、子どもとの掛け合いがすごく自然ですよね。それがすごーく受けをねらってという劇団もたくさんあったりして。
 クラルテにきてもらいたいんだけど、クラルテの日程と合わない時があって、まあ残念ながら違う劇団を呼ぶときもたまにはあるんです。そうした時に「スーホの白い馬」の時だったと思いますが、子どもがこう真剣になっているときにギャグをいれるんですよね。それでもこどもは笑わなかったんですけれども、同じ劇団の若い人が後ろで見ていて、その若い人だけが笑ったんです。
 このときに、こどもが笑うっていうことがちょっとちがうのかなって、思ったことがあるんです。そういう笑いのこともそうなんですけれども、自然にこどもとの掛け合いが引き出せる工夫がしてあって、「ゴリラのパンやさん」の時も、「大きすぎるんだよ」「小さすぎるんだよ」ってこどもが言ってましたけれども。お面が落ちていて、そのお面を拾ったら、「そのお面かぶればいいんだよ」ってね、それがさりげなくできていて、すてきだな−って。そんなところがいいなあーって、思っています。

 こどもの目線がいっぱいある

 それから、知恵を働かせて一生懸命生きているっていうか、そういう人間がいつも表現されていて、こどもたちはそういうのを見て「すごいなー」とか「あー、そうなんだ」ってね。自分ではそうじゃないかって、そういう風に発見できなかった子が「へーすごいなー」「あ−そうかー」って思えるという出会いがあるのがすごい、すてきだなって思っています。
 それから、いたずらとか、失敗がこどもと同じ目線で、いっぱいおりこまれているのがいいなーって。
 このごろそういう評価を気にするこどもたちはいたずらや失敗が思い切ってできない。
 今日うちも、個人的なことですが、孫をつれてきているんですけど、長男でおとなにかまわれて、いたずらや失敗がなかなかできないんすけど、そういうこどもたちを含めて、こどもと同じ目線でそんなことがね、作品の中にいっぱいおりこまれているなっていうふうに思いました。
 オオカミや、ゴリラやクマがたんなる強いとかね、りりしいとか、そういうふうな描き方だけじゃなくて、ああ、そういう子もいるなって、ああ、だめでもいいんだとか、弱くってもいいんだとか、ああ、オオカミも失敗するんだちとか、優しいんだとかって、いうふうに子どもたちが思えるような作品があるなーって、そんなことも好きです。

 良く工夫されていて静かな時間がもてる

 それからとってもいいなーと思うのは、声が荒々しくなく、ちっちゃくて、うーんとこう耳をすまさないと聞こえない声のように、すごく引き寄せられる。そういうのが子どもたちとクラルテの人形劇の間にはいつも醸し出される・・・ですよね。で、丁寧につくられているし、しっとり感があるし、静かな時間帯をずーっと何分間かもてるというか。今、本当に、光と音がね、はげしくこどもの回りにあるなかでそういう空間と時間がもてるっていうのは本当に大事なことじゃないかと思っております。
 もう一つはとっても簡潔で余分なものを取り払っているっていうか、私たちが何かを子どもの前でしようと思うと、一から十まで説明しないといけないし、それから五体の人形が出れば五人いないと演じられないとかっていうふうになっちゃうんです。けれどもクラルテの人形劇はそうじゃなくて、すごく工夫されていて、余分なものが取り払われていたり、大事なことがすごく選び抜かれていたり、本当に日常的にありそうな事をおりこんで、すごーく楽しいものにしていらっしゃるというか。そんな所が私ども保育園の私も含めて職員みんなが大好きで、どうしても毎年クラルテにきてもらわないとうちの保育園の保育は始まらないし終わらないっていうね・・・。
 そんなところでクラルテびいきの東久留米のひばり保育園でした。
 
 

 家の庭に人形劇を

中本    え−と、私は児童書専門店をしてから六年、文庫をして十五年です。なぜここへきたかなって思っています。
 私自身はクラルテを呼ひ始めてもう十九年近くになります。最初十八年ぐらい前に見たとき、友達で人形劇をやっている人につれられて見にいって「あー人形劇って面白いんだ」って。それまではこどものものだから、あんなものは見たくないっていう感じだったんです。面白いから行こうっていわれて、新宿のプーク劇場にいったのが初めてでした。こんな面白いものなんだなって知って、それからは自分が楽しむために行きました。
 最初はああ面白い、だからもっと面白いの紹介してって言って、カラバスとかいろいろ見に行きました、ひとみ座とか。私っていうのは非常に無謀な性格なんですけど、これを庭に呼べたらいいのに(笑い)、親のおかげで広い庭なんで、庭に来てもらえないのかなと言って無謀にもお電話しました。そしたらやってくださるということで、それで初めて上演していただいたのが十七年前でした。
 いいなあーって。劇場へ行くのも確かに素敵。ですけれども、値段も高いし、電車賃もかかります。相模原なので新宿まで行くのに一時間あまり小さな子を静かにさせとかないといけないんですね。それは大変。
 もっと気楽にもっと近くにふらっと行って見て、それがしょっちゅう見れたらどんなに素敵だろうなあ、なんて軽く考えちゃって、呼んで、最初は非常に大変でした。でもそういう危険みたいなこと、私は好きなんですね。「あー、やっと成功した」って終わって、「あ−ほっとした、また、次」っていう風に、なんか刺激を求めてしまうタイプなので、ここまでやってきました。自分が楽しんで良かった、自分がクラルテのを見て面白いものをぜひ来てほしいっていうふうに私がお願いして、今までやってきました。
 本屋をこれから栄えさせていくためには、人形劇でいろんな知らない人を遠くから呼んで、本屋についでにきてもらうというのがいいのではないかと、私はこの一年〜二年考えてきました。そのためには、クラルテの全作品をもっと私が呼びたい作品にして欲しいと思って、いつも非常にきついことを申しました。

 生のものはいいから呼ぶ

 さきほどからお話しがありますが、やっぱり笑わせよう、笑わせようとすろ人形劇がクラルテも増えてきたなあって、私には思えました。長い間見てきたんだけれども、筋とか、それを味わうために行われるユーモアとか、笑いだけだったらいいけれども、必要のない笑いをとることが多いなと思いました。あと何が言いたかったのかなとか。
 私もよくわからないんですよね、人形劇ってなんなのかなって、長い間考えてもわかんなくって、生で見ることって何なんだろうなーって、ここヘくる前に、一生懸命みんなにきいたんですけれど、みんなもよくわかってないんですね。生ってなんなんだろうなって、生で見たらいいよって、見た人はみんな知っているんですよね。でもだれも説明できないもんだから、私も本屋で人形劇を呼ぶときに「もうとってもいいんだから見て!!」っていうしか言わないんですけど、お金がもったいない人はね、そんな千円も払いたくないというんです。
 そういう人たちをいかに人形劇にきてもらうか、「よちよち屋」を見てもらうかということが、私の課題で、今のところ意味がよくわからないんですけれど、とにかく「いい」ということしかわかんなくでし、「やっぱり気が流れる」とか言う人もいて、そうかもしれないとか、思いながらよくわかんないんですけれども。
 結局私の方法は、見た方がよかったら、その人がイモの子みたいに呼んできてくれたらいいなっていう呼び方なんですけど。そういう形でしてるんですけど、それでクラルテが今まで私も好きで呼んできたけれども、いろんな意味で、なんか、もっともっと、こだわっていただきたいなと思います。

 クラルテは私の紹介したい本とあっていた

 先ほどからおっしゃっているように、喜ばせたり、ころばせたり、傷つけたりすることで、喜ぶっていうものがテレビでも多く、人形劇もふえてきていると思うんです。まあね小麦粉コメコメコ、コメコメってこうやって言ったら喜ぶ、というような必要のないものはなるべく省いてほしいなんて私は思っています。私は本屋なので、昨日も見ていて、なんでここへきたのかなーって考えているうちに自分はなんでこの本屋をやってきたのかなっていうことをぼーっとしながら待ち時間に思っていました。
 私は本屋としてもどちらかと言うと固い本屋です。絵本の専門店の中でも。山本先生の「子どもの本」ていうのをご存知かどうかはわからないんですけれども、本の専門店の中でも固い本屋ね。竜話犀ってご存知かどうか知らないですけど、まあそういうところが推している本屋です。五味太郎さんとか長新太さんっていうのは紹介しないでも売れていく本です。ちょっとかわいいわ、ちよっとリズムがあるわって、すぐとりつきます。
 そうじゃない本が、この世の中にはいっぱいあって、そういう本をぜひ楽しんでいただけるようになってと思って私はやっています。だから、雑誌もおかず、あまり、長新太さんの本もおかず、五味太郎さんのも、あの本が悪いって言っている訳じゃないんですけど、私とは接近の仕方が違うと思います。それで、クラルテは私が紹介したい、そのいわゆる本の世界とか、そういう世界に近いので、ここまでやっぱり、クラルテをこだわって呼んできたんだな−って思っています。
 クラルテを紹介するときも、私がすごくいいなと思うのは「すごくいいから!」といいます、でもまあまあかなと思うのは「まあまあだから」っていいます。そこのちがいってなんなのかな−って、私はず−っと考えているんですけど、それが細かい点におよんでくるんじゃないかなーと自分では思っているんです。どっちかっていうと本を紹介していく時に、すごく固いので、非常になんか少女のようですが、「人生の真実とこの世の中の美しさと人間の本質を伝えていく」本があると私は思っています。
 それでまた、子どもが受けていける本があると思っています。ただそれは人り口がとっても小さいんですけれど、奥は深くて、必ずすごく影響を受けていくものだと思っているんですね。だから文が完成度の高いものだと思っています。
 おとながいいと思った本は子どもはそうではないわよねという話がありますけれども、でもそれは待てば、繰り返せば、いろんな方法を強制しなくても、心ずそこへくると経験で私はそう思っています。私自身が変わってきたと思ってるんです。そういう意味で私は本とくらべてよくよく考えて見ました。

 私の好きな本と比べて見ると、いろいろある欠点

 色が美しくない、完成度がもうひとつだなーと思うものが昨日も見てありました。そして、ふざけがやっぱり。今さっきの笑わせるというのが多いっていうのは、私が見てなぜこれがいけないのかなっていうと、私はその世界を見たいんですね。だけどそのふざけがあることによって止まっちゃうんですよね。自分の楽しんでいる気持ちがパタッと止まってしまって、逆に言えばその世界に入り込めないんですね。だからふざけてほしくないなーって思うことがありました。確かに笑うし喜ぶかもしれないけれどもそうじゃないものを私は見たいなと思いました。
 あと、お母さんと一緒を思いだしちゃったなっていう人形劇があったんで、なんかお母さんと一緒が悪い訳じゃないけれども、私はお母さんと一緒みたいな人形劇をあまり見たくないなと思いました。  絵本でもおおげさに読まないほうがいいと私は思います。それはなぜかというと、その読む人の姿が見えてきちゃって、本の心とか、本の絵とか、本の言葉がそのまま美しく伝わっていかないからだと、私は思っています。で、それと比較していくとクラルテは少し技術が先走っちゃって、細工なんかあそこまでしなくてもいいんじゃないかなって思うときが少しあります。
 音が大きすぎて、確かに演奏は上手ですごいなーと思うけれども、ちょうどこないだも公演をしていただいたんですけど「あーバイオリンが聴けて良かった」っていう人がいたんですね。だから演奏は補助であるべきですし、作品そのものの良さをいかすために音楽があるので、音楽が先では、ちょっといいのかなーっと思って。思わずその演奏にばっかり目がいっちゃうんですよね。音は大きいし、ちょとその全然本体の方にいかないし、そうすると本体の方は非常に雑になってしまっている上うな演技があるような気がしました。

 演出する人がいるのかな?

 あと、演じる人の表情がやっぱり本を読んでいるときはずーっと貫いて、他のことは考えず、ずーと流れを私なんかは追っかけていこうとします。他のことは、おかずのことなんか考えたらおしまいだから(笑い〕、その絵本を楽しんで、そのなかへ入って行けるように私はするし、ましてやそうしなければ楽しくないと思います。そういう意味で少しなんかこう作業してるのかなーとか思っちゃったりすることがあるんですね。顔の表惰とか、ふと見た時に、自分がふっと冷める自分を昨日も感じました。だからなんか一生懸命やっていて、ほめるのは他の方にお任せして、小手先でなく本当に自分をかけた人形劇を一回一回きっとされてるんだと思うんですが、一回一回もっとしていただけたらなーと思います。
 ずーっとクラルテをここまで見せていただいて、演出される方っていらっしゃるのかなってふっと考えました。やっていてる内に違う方にいっちゃってるんじゃないかなって思ったりして、それか途中で見合うとか批判しあうってあるのかな−っとかって、思いました。たしかにお上手だし、私とちがって演じながら見ることができるんだなとは思うんですけど、前から見る方いらしたらいいのになと思っています。

子どもはもっと信じてほしい

 そして、さっきのお話しでこどもの感性をっていう話もあったんですけど、こどもの方がみずみずしいと思います。だから、そういう感性を馬鹿にしないで、本当にこんな本好きになるのっていう本、すばらしい選択の本なんかも好きになっていきます。その子どもに引っ張られて、本の世界に人って行くおとなもたくさんいます。
 だからそういう本当にあったかい色、絵、そういうものを感じるだけの力がこどもには当然あると思います。でも、それは育てていかないとだめだなと思うので、ぜひこどもを馬鹿にしない作品をと思っています。こどもというより、人間をとか、おとなとか、見る人をってことだと思うんですけど・・・です。
 あと、笑うってことに関してちょっと重複になりますけど、ハハハと笑うよりもそういう人形劇はまあ、パンチ君とかで好きですけど、ほはえんでふっと、くすっと笑うようなそんな人形劇が私は好きです。
 あと、さっきおっしゃったような人形劇の・・・私はどっちかって、人のいいのが出てくるのは好きじゃないです。
 本屋にきて、先生がおっしゃるのは、「親が優しくなるような本」ないかって、「そんな本あるわけない」って私は言ったと思うんですが、それと先生がおっしゃるのは。こういうふうな課題をしたいんだけど、それに役立つ本は?」と小学校の先生はおっしゃるんですけど、「そんなのない」みたいな・・・なんですね。あんまり優しいのとか、いい人が出てくるのは好きじゃないです。

 昔話の中の人間について

 それに関して、昔話を取り上げられていますけど、「ホレのおばあさん」も昔話ではあんなに優しいおばあさんではありません。意地悪で。だから、どうも昨日の「ホレのおばあさん」も見ていて昔話とは離れてしまっているなって思います。昔話っていうのは残酷で、ある意味で非常にこわいもので、だけど子どもはこわいと感じないで、そこの裏に描かれている人間の心のなかのどろどろとしたものをとらえているんで。いわゆるおばけとか、今流行っているようなのでこわいっていう意味じゃないと思うんです。
 おきかえてこわいお母さんとか、魔女はほとんどお母さんですから、そういうのって、子どもは実際体験してるわけですよね。うちの本屋にくるある若い子が、私も親ですからきっとそう思われていろんだなってぞぞっとしたんですけど。「うちのお母さんオニババです」って言ったんですよね。昔話ってそうなんだなっと思うんですね。だから、どうも描き方も問題なんじゃないいかなーと思って見ました。
 じゃーそれだけです。ありがとうございました。

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