人形劇団クラルテ35周年の輝き
・記念公演「地獄極楽閻魔通信」におもう・ 宇津木秀甫 |
劇団の35周年という次元は私のようなちっぽけな個人では考えがまとまらん、途方に暮れる類のものです。エエカッコで、そんなん気にしてたら劇というしろものは創れまへんやろとも書きたい。けれども劇団とは妙なもんでこれは劇公演の条件をつくる「体制」の核で、プンプン反体制を臭わせる芝居もこの「体制」がないとイタにのせられない。劇団には二律背反的なところがある。35周年とはえらい「業」を背負うてしもぅたなあと同情する反面、建てられた「体制」的巨塔に敬服拝跪する衝動もおぼえる。こんな程度で、今度の脚本を読まして貰うたら、これは興味津々以上におもしろかった。 何を陪そう、私は寺のうまれ、実際にお説教を子守り唄のように聞きながら眠った経験があって、今でもお説教口調を少しなら演れる。だから、例の説教タネ本古代版「霊異記」「今昔物語」に現今の仏教諸派、仏教哲学の尺度で量れん綺談があって、それをおもしろいと評すると文句が出そうだがとにかくそういうおもしろい説教ネタは中・近世を通りぬけて今でも説教坊主が使っているのではないかと思う。私が寺憎であった20余年前、そういう理不盡でおもしろいお説教が事実やられていました。民衆はそういうお説教に呪縛されて来たんやないかと思う。しかし、歴史の流れというものから見ると、そういうお説教も中世以降の民衆にとっては見え透いたものやったやろう。見え透いたお説教の鏡に生活を写し出しながら、その定型お説教を愉快・爽快に手玉にとって繋ぎ束ねて、パロディ化して、民衆はちや−んと昇華させてたんやないかな。古浄瑠璃「阿弥陀胸割」はまさにそんなもんやという感じがします。劇団のチラシには奇想天外という宣信文句もあったようですが、実は「透け透けルック」な話でもあろうと思います。 人形劇は泥んこに大格闘させたつもりでも一片の抽象・概念でしかないこともある難物。クラルテも35周年ともなると概念化された人形のお化けがうようよしているのではないか。吉田清治さんは「さあて−」と構えて、そういう「業」の蓄積を白昼の路上で燃やそうとしているのではないかと拝察します。 そうなるとラストの阿弥陀仏の形象はむつかしい。方々に「山越え来迎阿弥陀仏」なる絵が残っている。山の彼方に山よりも高く阿弥陀仏が凡夫を待ちうけて侍っていなさる、シュールなもの。あの程度に宇宙的阿弥陀仏を一瞬見せて、次の一瞬に霧散させてはどうか等々、もう楽しく想像の遊びをしてしまっています。ラストは業火が尽きて、輝く空間だけを見せたらよいのだと、もう決めてしまっています。 35年の業火を燃やしきつた輝きがあってこそ、明日からまた、子供の未来のために新鮮で多彩な人形劇がこんな時代になおも創造出来るのではないかという感じがします。これは見え透いた人形劇の道程なのでしよう。 堂々、白道を歩いてくる人形劇師たちを迎えられる悦びで客にならせてもらえます。 (宇津木文化研究所々長) |