クラルテと近松、そして吉田清治
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(神戸学院女子短期大学教授) |
クラルテが再び近松に取り組むという。その話をある感動をもって聞いた。吉田清治氏が生涯をかけて追及してきた仕事が、これで劇団の第二世代によって確実に受け継がれてゆくことになった。そう考えてもいいだろう。
クラルテが近松作品をはじめてとりあげたのは七三年の「女殺油地獄」。 劇団創立二十五周年、近松二百五十年忌の記念すべき年だった。以来、近松作品は今日まで実に十本に及ぶ。その脚色.美術、演出のほとんどを吉田氏が受け持った。今その一つ一つを思い返してみると、近松を現代人形劇の舞台に再現するために、吉田氏がいかに細心の注意を払っていたかが伝わってくる。 言うまでもなく、近松のドラマは浄瑠璃の語りを前提にして書かれている。ところが最近、新劇や小劇場の舞台で、語りを抜き去って純粋のせりふ劇として上演する玲が時々ある。その多くは成功していないと私は思う。そういう試みは、たとえて言えばミュージカルから歌の部分を抜き去って上演するのと同じであろう。 吉田氏にはそういうことがよく分かっていたに違いない。しばしば琵琶や三味線を使い、語りをつかった。近松のドラマツルギーを見抜く眼力を氏が持っていたからである。 またクラルテの上演した近松劇には、「心中天網島」のような世話物の有名作品が乏しい。話題性をねらうなら当然あがって来そうな作品がない。これも一作ずつ慎重に現代人形劇として再生可能かどうかを検討した結果なのだと思う。 近松に限らず、世話物は現代人形劇には不向きな世界だと思うが、それは現代人形劇では、リアリスティックな表現が難しいからだというのではない。現代人形劇の持つ奔放なエネルギーを世話物という入れ物が受け止められないのだ。 ところが、「女殺油地獄」などになると世話物とはいえ主題には不条理的な現代性があり、悪人が活躍するところにはピカレスク(悪漢小説)の面白さがある。 吉田氏の選択眼の鋭さを今にして思う。 美術の面でも、一作一作に見せ場が用意されていた。「国性爺合戦」で、白砂青松の平戸海岸と、後半「九仙山の場」の峨々たる山容との対照。日中両国の風土の違いまでを暗示する名場面であった。 八十年代以降、クラルテの古典人形芝居には古浄瑠璃や説経節を原典とした舞台が多くなる。人形の可能性を追求する意欲が吉田氏の身内にあふれかえっていたのであろう。 求道のきびしい旅の半ばで、氏は去った。けれども今、吉田氏ら第一世代に育てられた次世代が、その旅を継承しようとして雄々しく声を上げた。伝統が生まれてゆく現場、そこに、今立ち会っているのだという感慨に、私は満たされている。 |