上演によせて
脚本・演出 東口次登 |
97年に時代物『紅葉狩り剣のゆくゑ』を脚色・演出して以束、3年ぶりに近松作品を手がけることになりました。クラルテとしては近松人形芝居その十三となります。 昨年はジョージ・オーウェルの 『動物農場』を人形劇化しました。その頃、次はまた日本の古典に帰ろうかと考え、色々、探していました。紅葉狩りが時代物なら、次は世話物でと考えていましたが、世紀末の現在、長引く不況や若者の犯罪など、余りに暗すぎる社会状況の中で、心中を中心とした物語が果たして、受け入れてもらえるのだろうかと悩みました。 やはり今は、もうすぐ来る21世紀に向けて、元気の出る芝居をしなければならないと思いました。そこで元気の出る時代物を探すことになりました。 数ある近松の時代物の中で、『嫗山姥』 は鬼退治で有名な四大王の登場、中でも金太郎の伝説の元となった坂田金時の出生の秘密や活躍があり、とっても骨太の物語で、痛快時代劇になると考え脚色しました。 しかし、この原作は 『紅葉狩り・・・』 にくらべ、舞台化するには、結構曖昧に書かれた本だなあと感じました。それは平安の物語なのに「島田髷」 「月代」といった江戸時代頃の風情があったり(それは近松自身の現代化〔江戸化〕ということで、少しは納得するのですが)、登場人物の登・退場や行動が不明確で、人形の動きが想像しにくい本でした。 そこで、脚色にあたっては、まず登場人物の動きを 再構築することから始めました。それが出束たら、後は頼光と四大王がのびのびと活躍できるシーンを書けばいいだけです。 近松は現在、『曾根崎心中』や『心中大の網島』に代表されるように、文学性の高い世話物の方が評価されています。しかし、近松はそんな世話物を書きながらも、死ぬまで時代物を書き続けていました。この 『嫗山姥』 にしろ、『国性爺合戦』 にしろ、戯曲の段階では文学的価値は世話物には及びません。しかし実際、生の舞台で表現された時、文学性を超えた人形芝居の面白さは時代物だと知っていたからこそ、近松は時代物を書き続けたのだろうと、今は推測しています。 今回は、人形芝居がもっとも不得意とする八重桐らの長い台詞があります。また太鬼退治などと言えば人形の得意分野ですが、そこには大きな物に対する重力の抵抗があります。当時の芝居は大鬼をどう表現したのだろうと、思いを馳せつつ、大胆な人形芝居を作ろうと考えています。 |