浄瑠璃「嫗山姥」より。物語は摂津源氏・源頼光の許に、四天王=渡辺綱・碓氷定光・卜部末竹・坂田金時が集うまでの因縁譚。それに天皇の威光をきる右大将高藤と平正盛を懲らしめる話をからませている。浄瑠璃・歌舞伎の定番である、仇討、宝剣の行方、無念の切腹、仇役の横恋慕もしっかりと入っている。と言いながら、〈人形劇〉ともなるとどうしても「金太郎」伝説がメインとなろう。そのため、勧善懲悪のくくりは熊をも投げ飛ばす怪力からの大活躍ということになる。
講談師・旭堂南左衛門を語りに招いて、スムーズに物語は展開している。ただ、舞台として、どこにポイントを置いてまとめていくかであるが、源頼光がどういう人物なのか、何故、諸国の勇士を集めているのか、何故、源平が対立しているのかなどが他の市井の〈心中物〉と異なって分かりにくい。
表現としても、〈人形浄瑠璃〉としての原本の部分と、〈人形劇〉としての現代的部分とがうまく融合できたとは言えない。
山姥・動物などの人形表現は面白いが、大鬼・閻魔大王などを〈作り物〉で出すのは如何なものかと思う。武者たちの人形はどうしても同じような形象になってしまっている。 そして、いくら「金太郎」だろうとて、あまりにも小さい、赤子同然であり、それが怪力を出したとなると、これでは別の意味で荒唐無稽である。八重桐が変化した山姥の長台詞がうまく乗っていないので、夫の忘れ形見「金太郎」への慈しみが利いてこない。権力への抵抗が「金太郎」の怪力大立ち廻りによって実現するならば、四天王とは何だったのか、結局は物語が分散してしまっている。
〈吉田清治〉の近松物はしっかり基本の筋を押さえていたが、〈東口〉近松物は現代を取り入れようとしてまだ定まっていない。ラストに頼光・四天王を通天閣に出現させたとしても、これで現代の世の中に対する批判とすれば、やや安易に過ぎないだろうか。(今)
[原作]近松門左衛門 [脚本・演出]東口次登
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